「フィンランドの福祉について」


高橋絵里香著「ひとりで暮らす、ひとりを支える」を読んで改めて思うことは、社会福祉を形作る前提となる人々の意識についてだ。フィンランドにおいて語られる個人は、日本人のそれとはかなり異なる。また一口に家族といっても、その境界と家族になるための社会制度や移行も実は曖昧なのだ。

だからフィンランドでは日本で家族介護と呼ばれるものは、「親族」介護という表現を取る。またフィンランドには公用語がフィンランド語、スウェーデン語と2つあり、高齢者層ほどスウェーデン語話者が多い。こうした背景からケアワーカーは基本的にバイリンガルである。

社会文化や、それらが醸成する個人主義、家族との相互関係によってフィンランド独特の福祉国家ができあがっているといえる。だがそれを支えるのは他者に対する想像力と共感であり、フィンランドという国の福祉を理解するためのキーワードは個人と関係性というものであると感じた。

北欧諸国は一般に福祉先進国と呼ばれる。国家の形態について触れるなら、それは「大きな政府」という表現が取られるだろう。政府の行政範囲が広範囲なのは、フィンランド社会の中にある家族制度の曖昧さと、比例して強化される個人主義と対照をなしている。つまり、伝統的な血縁意識、そして家族を最小単位とする繋がりの希薄さというものを国家という存在がその代わりを務めている、という構図が浮かび上がるのだ。この点は強調しておかなければならない。日本において、こうした家族制度の曖昧さと国家による代替的な機能と制度的保障の側面はあまり触れられない。これは社会文化に根差したものであり、ある意味では民族的な特色でもあるかもしれない。そうした部分と社会保障制度の関わりがどのような相互作用を来しているのか非常に興味深い。

高橋はそうした点を、「私たちの日々の経験は、より大きな枠組みと影響しあっている一方で、生活のリアリティは公式の見解とは少しずれていることも多いのだ」という表現で暗に触れる。そして、フィンランドにおいては必ずしも血の繋がりのみが「家族」を指すものではない。人類学においてはジャネット・カーステンがマレーシアの漁村についての研究から、親族とは必ずしも血縁という生物的な繋がりを前提とした関係ではないと主張した。ここで言えることは、親族であるという「関係性」を保証しているのはもともと「血が繋がっている」ことではない、ということだ。関係性という概念は、文化人類学の中では比較的馴染みのあるものだ。

この関係性という概念を端的にいうならば、同じ釜の飯を食べるというように、血縁以外の空間的・時間的なものも含めたより統合的なものを指す。



「……身体の中身が共通のものへと変質していく過程で関係性が生じると考えられているのである。関係性という概念は、流動的な親族の在り方に着目するための視角として、人類学研究の中で広く応用されていった。……親族は固定的な関係ではなくなってきつつあるからだ」


家族とその関係性の流動性というものに目を向けた時、空間と時間とを横軸にした新たな「関係性」に目を向け、それらをさらに社会福祉サービスの在り方へと応用していくことは、これから益々重要性を帯びていくに違いない。

さて、その空間として高橋は地域というものをあげるわけだが、そこへの言及が面白い。



「私は群島町が理想の地域社会ではないことに幻滅しているわけでもない。全員が一致団結して同じ道徳的目的の下に行動する社会は、むしろ全体主義的なディストピアのように思えるからだ。(一方で、言語集団間の分断を、ハンナ・アレントが複数性と呼んだような開かれた公共空間の問題として論じることも難しい。意見を述べる場としての公共空間と、日常的な社交の場所は違うからだ)」


「私が群島町に見出した「地域」とは、明確な地理的範囲や集団ではなく、達成すべき道徳的実践でもなかった。それは社会福祉制度をかたどる些細な部分の集積であり、自分の目で見てきた無数の断片から予感するようなものだったのである」



高橋の言う「地域」つまり、空間性というものは物理的な範疇を超えた、人々の関係を含めたより抽象的な概念への至っていることが分かる。これは実際に人々の生活という次元では、物理的なものよりも目には見えない言葉や情緒、あるいは沈黙といったもので構成されていることへの意識によって導かれたものであろう。そういった空間では統一よりもむしろ混乱が、合理性よりも不合理であるほうが望ましいのかもしれない。なぜなら、高橋の想定する地域性や空間とはそうしたぶつかり合いの中で、非常に曖昧な境界線(事によると境界線そのものすら存在しないのかもしれないが)の中で構成されるものであるからだ。

ここまで来ると、従来の決められた時間内で支援を行うという構図そのものの意味まで問われることになる。



「私たちは時間通りに働くんじゃなくて、利用者のニーズに合わせて働くべきよ」



これはフィンランドのとあるケースワーカーの言葉であるが、私はこの国の福祉観とはここまで行っているのかと驚いたものだ。

そして、もう一つ認知症というものについてのフィンランド国内での受け止めについて触れたい。認知症とは、フィンランドにおいて記憶の問題である。そして、この記憶について欧米社会においては自立した個人を独自の存在とするためのものと考えられてきた。

高橋は「フィンランドにおいて認知症は意外なほど「社会」問題化されていない」という。

記憶の問題は、一人一人の予防といった個人的な次元での対処が期待されてきたからだ。こうした個人主義は、実は個人が選び取ったものではない。個人の決定と自立を尊重する枠組みは、社会によって作り出されているからだ。認知症という現象は、記憶問題であることに触れたが、それは「忘れること」を問題にしているということだ。この忘れることをも個人的なことであると集合的に構築されているのだ。フィンランドにおいて、「認知症をめぐる実践は、忘れることと覚えていることが表裏一体の関係にあることも示唆しているよう」だ、と高橋は指摘する。このような個々人の中で、誰かとの関係性において、忘れていることと覚えていることは共に構築されるのではないか。

認知症に対するこうした見方は、伝統的な医学モデルというよりは、アーサー・クラインマンが医療人類学の中で唱えたような「病い」というものの見方に近いように感じる。明文化されていないこうした点に、福祉先進国の特色が現れているように思う。








参考・引用:「ひとりで暮らす、ひとりを支える」高橋絵里香

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