大人の見え方


連休だったので、ドラマを一気見した。

「女王の教室」という日テレのドラマで、10年以上前の学園ドラマだ。天海祐希演じる悪魔のような鬼教師阿久津真矢と、志田未来演じる主人公和美とクラスメイトとの奮闘と成長を描いたものだ。

なかなか強烈な内容で、例えば成績順に給食を配り、授業中もトイレに行かせない、雑用を成績下位の児童にやらせ、夏休みも登校させるなど今なら放送できないような内容だ。wikiによれば放映当時からPTAなどの団体から名指しで批判され、賛否両論あったそうだ。ドラマ中にも志田未来へのいじめの描写など、かなりキツい描写が続く。

たが阿久津真矢の決め台詞ともいうべき「いい加減目覚めなさい」から続く言葉はなかなか社会の本質を言い当てるもので、彼女の一見鬼のような教育はこうした意識と表裏の下実践されていたとのちに見ることができる。また阿久津自身の存在を単なる鬼教師では終わらせない配慮もあり、作中の後半に過労で倒れるのも「自分の厳しい指導で生徒たちが傷ついていないか」が心配で寝る間も惜しんで生徒を見守っていたからと明かされる。

オチとしては鬼のような教師と思っていたら、本当は良い先生だったというもので、そこに種々の社会問題や事象が盛り込まれている。その点が面白く、阿久津の視点はまさにそうした病理に躊躇わず光を当て、そうした現実から逃げることなく戦える術を身につけなさいというものだといえる。



まず家庭内の問題が随所に盛り込まれている。志田未来は機能不全の家庭に見られるような道化役の典型的な役割を負わされている。両親は不仲で、家庭内で唯一頼れる存在は姉だけである。両親が言い争いを始めるとわざと牛乳を零して空気を変えようとするなど、健気である。こうした一見お調子者でおっちょこちょいな面は教室内でも発揮され、時として「純粋過ぎる生き方は時として厄介なものとなる」と見なされる。

また作中の早い段階で志田の味方になった進藤さんも、一見クールで勉強もできるが母子家庭であり母親への根深い葛藤を抱えている。しかも母親は自宅でデザイン事務所を営んでおり、空間的にも時間的にも葛藤を抱える母親と離れることができない。彼女は回避傾向の強い子どもになり、友達を作ることもせず本の世界に没入することで自らを守っている。他に進藤さんに憧れ、志田未来とも最初は親友になった馬場ちゃんも集団における負わされる役割を考える上で興味深い。彼女は自他共に認める地味で目立たない存在であり、得意なことは取り立ててない。ゆえに友達もおらず、なかば透明化した(された)存在だ。だから阿久津にスパイになるよう迫られた際は志田との約束もあっさり反故にし、親友という立場も捨て去る。他に志田よりも道化役の強い不定期登校をする両親不在の由介など、興味深いキャラクターが多くいる。

舞台となる6年3組には、私立受験組のエリート層と一般的な家庭の中間層、それよりもさらに下の下位層に暗に分けられている。志田は中間、由介は下位層であることが示唆される。このように学力、家庭内の経済力が反映された形を取る教室は社会のミニマムであり、教室内で起こるいじめや窃盗、人間関係のイザコザ、敵意や不安などはそのまま社会病理の反映である。

阿久津は何か問題が起こるたびに「いい加減目覚めなさい」からなる言葉で、こうした大人社会の実相や社会の欺瞞を躊躇うことなく明かしていく。

その中でも、「なぜ人を殺してはいけないのか」「なぜ勉強をしなければならないのか」というパートはこのドラマ内の大きな見所だろう。前者に対して、阿久津は以前勤めていた学校での問題児が問いかけてきたものであることを明かし、「聞けば大人がちゃんと答えられないことを彼は知っていた」と言う。「どんな人にも夢や希望があり、それを奪う権利は誰にもできない。犯した罪は必ず罰せられ、逃げる事は出来ず死ぬまで孤独」でありと説き、だから人を殺してはならないと続いていく。また後者については「しなければならないものではなく、したいと思うもの」だと喝破する。

だがこうした教育手法は問題となり、教育委員会が出てくることになる。ここで取り上げた2つのパートも、教育委員会の委員が授業参観をする中で行われ、委員は「児童に明かすべきでない社会の事実を明かし、不安を煽っているだけ。即刻クビにするべき」と言う。阿久津は卒業式を前にしてクラスを去ることになる。

志田は教室内で次第に結束を固めていく要となり、阿久津が人一倍志田に厳しくしたのもクラスが抱える病理を救うことができると期待をかけていたことの裏返しであった。阿久津が去った後の卒業式まで、志田とクラスは結束を強めていき卒業を迎えることができる、というのが大筋だ。



大人社会の病理を反映した存在としての子供たちと、そうした病理と病理のぶつかり合う場としての教室、それを知っていながら対応をしない社会的存在としての教職員たちの関係性は社会派ドラマに相応しい構造である。

教育委員の言うように、阿久津の告げる社会とは真実ではあるが、「子供たちに明かすべきでない」とされている。教室という閉鎖空間の中で意図的な覆いを被された子供たちがどのように成長していくのか、誰も責任を取ろうとしない。そこには、子供たちもやがては必ず大人になっていくことへの視点がすっぽりと抜けてしまっているからだ。そして、大人になった先には不条理と不平等とが待っている。

阿久津の同僚教師である1人が「今は大人が壁にならない。盾にならない。だから子供たちが非行に走るんです」と話すシーンがあるが、これは大人への見方として示唆的である。



みんな平等はあり得ない。いじめはなくならない。家庭の経済力によって、子の人生まで決まる。

これらは不都合な事実だ。このことに、大人は十分に向き合えていない。そして、向き合ったその先の術を知らないまま、ごまかし騙しながら生きている。その姿を通して、子供たちは生きている。

モンスター化する親はすでに何年も前から問題になっている。おとぎ話の結末を残酷だからと変えさせ、徒競走の順番づけを辞めさせ、卒業式の歌にまで口を出す。そんなことが平然と行える大人と言われる人たちがこの社会には多くいる。

共通するのは、自らの価値観でしか社会場面のあらゆるものを測れない視野の狭さ、知性の稚拙さである。そして、心の理論ともいわれる他者への共感と承認の欠如である。

阿久津のショック的なやり方でしか、大切にすべきものやことが明らかにされない、意識されない社会環境や、大人の存在。それがこのドラマで一貫して主張されたものである。



このドラマが制作されたのは10年以上も前だが、現代においてこうした傾向はますます強くなっているだろう。

人間性への確かな眼差しの欠如と軽視は、今後より重大な問題へとなっていくだろう。テクノロジーはあくまでアシストに過ぎず、それが本質的な問題の解決それ自体の救世主とはなりえない。

実際に腹にナイフを突き立てるまで、痛いことが分からない。こうしたことは実際に起こっている。これは単に想像力の欠如、知性の欠如のみで片付けられる単純なものではない。もっと根深い、人間学的病理が潜んでいるように思えてならない。

その中で、教育というものは一つの希望である。これは単純な学習を指すものではなく、もっと幅広い知性の創出を目指す活動を指すものだ。これからの社会で求められる知性と教育とはそのようなものであるべきだと思う。

手段としての知識でもなく、単純な生物として生命活動を支える知能でもなく、人間として生き延びていくことのできる知性のための教育が必要なのである。

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