「人間らしさとの狭間」
社会の中に存在するということは、個人と固有名詞のない数字や部品としての役との行き交いの繰り返しである。
個性、人間らしさというのは美し言葉ではあるけれど、真の意味でそれが担保される領域というものは、社会の中、特に社会活動の中においてないのではないか。社会そのものが、巨大な一つのシステムでありネットワークであるとすれば、そこで生活する私という存在は否応もなく、「単なる部品」となることもやむを得ない。
人が「単なる部品」と化す領域の最たるものは、労働だと思う。最近、シモーヌ・ヴェイユの「工場日記」の抜粋を読んで改めて思ったことだが、労働という行為の中には、非人間的なもの、思考そのものを諦めさせるものが存在している。ヴェイユ自身も、次第に蝕まれていく肉体と思考とを記述している。
人間的な思考や存在を阻むある種の構造がそこにあるのだ。ヴェイユは生来虚弱で、劣悪な工場労働に耐えられるものではなかったが、同僚などの助けを経てこれを続けていく。彼女はその中に本来の「人間らしさ」や「根っこ」を見出したわけだが、こうした非人間的な構造は、組織というものにつきものである。
私とは、有機的な存在であるがその私を取り囲む社会環境とは一方では全く逆のベクトルに引かれているものだ。
社会が想定するのは合理的な存在としての人であり、部品であるが、有機体としての私は全くもってそんな存在ではない。だが、そうであるかないかはこの社会にとって大した問題ではなくて、そうでなくても「いかにもそうあるように」見せかけることさえできれば良いのだ。そこには倫理も生命体としての視座はなく、ひたすらこのシステムを動かすことに関心があるのみだ。人間の存在とは、すべからく管理され定義づけられ、それが最終的にモノやサービス、財へと還元されていくように秩序づけられている。
だがこの私という存在は、決してそういった構造の元では癒されることがない。
社会と固有名詞としての私との、そうした裂け目にあるものが「生きづらさ」であるし、生きがいやら希死念慮というものだってあるのではないか。しかもこれは目に見えない構造の中で行われている。
いうなれば、人間的なものと非人間的なるものとの相克である。そして、労働とは最もそういった相克が著名になる領域だ。
鷲田清一は「『聞く』ことの力 臨床哲学試論」において、以下のように指摘する。
「人生の幸福と不幸がたえず裏返る場所、そして患者の日常と治療・看護する側との日常が裏返しになっている場所、そういう転回の起こる面が臨床の場所であるとすると、看護という職務にあたる人はそういう場所にこそいつも立っている。
日常と非日常が反転するその蝶番の場所にいつもいる。そういう場所は職業として割り切れない場所である。職業人になりきったら職業をまっとう出来ないという矛盾、顔を持ったひとりの人間として他の人に接する職業という深い矛盾をはらんだ仕事である」
臨床とは、「病める人の床(病床)に赴き、援助をすること」という意味からなる。
仕事にも色々とあるが、特に職業人と人間らしさとの狭間に置かれるのが医療福祉の現場だ。鷲田の言葉も、直接的には看護師へと向けられたものだがこれは医療福祉の現場であればどこでも通用する言葉だ。
仕事を全うするためには、非人間的にならなければならないが、そうであろうとすれば、仕事を全うできない深い矛盾がある。冷徹なプロと、無知で無垢なるアマチュアとの行き交いが絶えず要求されるような現場だ。
これは言葉にする以上に大変なことで、こうした深い矛盾は私の根本的な部分を揺るがさずにはいられない。
基本的には職業人であることを要請されながら、しかも時として個人として向き合うことをも求められる。これはヴェイユの言うようなも工場労働での非人間らしさとは異なるものではあるかもしれないが、「人を根源的に磨耗させる」という点では同じである。
ここで私は「生きる実感」について考えるのだ。非人間的な狭間に存在している私というものは弱く脆い。それを騙し騙しごまかして生き続けることが、社会の中に在るということだ。そうして生きることに耐え難くなった時に人は精神を病むのだと思う。だから、精神疾患というものを人間学的に捉えるならば、一つの社会的事象であり一人の人間の中にある「生きる力」の別次元の在り方ではないか。ここで問題にされるのは精神医学的な領域だけでなく、社会的な生と精神のありようだ。
社会というものの非人間的な側面と、それらを構造的に支えている諸要素と、個人との関係を考える必要があるだろう。
社会の秩序というものは、往々にして非人間的なものであり皮肉なことに集団を維持するためには人間的な要素は時として毒にもなる。個人を個人としてではなく、数字や部品として扱わざるを得ない領域というものもあるからだ。だが個人はどこまでいっても固有名詞を持った有機的な存在であり、これを否定することは決してできない。この深い矛盾をどのようにして理解すればいいだろうか。そもそも、こうしたことは「理解される」ようなものなのだろうか。
だがともかくも私は私として生きており、否応もなく存在している。
こんな風に考えるようになる前は、ただひたすら生きることが辛かった。これは私自身がなにかを解決したわけでも、理解したわけでもなく、だだなんとなく、この世界の在りようについての考え方、思いの巡らせ方についてほんの少し器用になったというだけだろう。
人として存在すること、有機的な私として存在することは、「人間らしさ」という言葉によって表現される。
それをある意味では根底から否定するような領域に身を置きながらも、同時にそうした領域そのものをもどこかで否定し続けなければならない。
そうした矛盾のさなかで生きている。
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