リサイクル可能な人体と、人格的生存

前回に続き、「ちくま評論選 二訂版」を取り上げたい。前回の「ちくま近代評論選」とはやや異なり、その射程は近代から現代社会へと広がっている。人間、社会、言語、文化、世界……に至る一流の思索を辿る。

私が本書の中で最も興味深く読んだのが西谷修の「死の再定義」である。主なテーマとして脳死が扱われている。だが、これは「ヒトの新たな死」という事情のみに当たるわけではない。精神と肉体は生という現象の中においていかなる存在であるのか、という根源的な問いを含む複合的な問題である。そのことに、進歩し続けていく医療や科学に有機的な存在としての私たち及び思想とはいかなる解釈を行えるのか。まずは本文を要約していきたい。



従来の臨床的な死の基準を見直し、脳死をもってして人間の死を判定しようとする議論がある。これは死の定義の科学的厳密化という問題のみをはらむものではない。

医療技術により、臓器の移植が可能になったがそれには人が1人死ななければならない。しかもその臓器は「できるだけ」新鮮な臓器でなければならない。ここで、「死に切っていない」提供者が必要になるのだ。脳死の議論とは、こうした要請に応えるために生じたものである。

また、こうした背景とは別に生命維持技術の発達により「生きている死体」ともいうべき新たな生存形態が生み出されていることも事実である。

そもそも、「生」というものを単なる生物としての生でなく、「人間の人間としての生」として捉えるならば、人格を統合する脳の死というものは、そうした人格的生存の終焉を意味するだろう。こうした考えの背景には伝統的な西洋の霊肉二元論があるとの指摘がある。基本的にこの二元論は肉体よりも精神に力点を置いた観念論であった。ここでは肉体の死とはむしろそこに囚われた精神を解放するものとして捉えたれていた。

だが脳死による肉体と人格的生存の分離とは、これとは逆に肉体の方を死から救い出すためになされるものである。ここでは精神の死を持って肉体の解放がなされる。これを西谷は「霊肉二元論の意図的反転のカリカチュア」と批判する。

人間の肉体は交換可能な部品としてここでは存在し、臓器移植も「人体部品のリサイクル」でしかない。こうした考えに生理的な嫌悪はあろうが、この考えはなんら咎められるものでもない。こうした人体の部品化のためには、死というものが意図的に早められなければならない。部品の寿命は短く、できるだけ新鮮であることが何より求められるからである。そしてそれを可能にするために、とっくの昔にお蔵入りしていて霊肉二元論を持ち出し、「接ぎ木」したかのような議論が先述したようなものである。西谷はここに、「死の再定義のいかがわしさ」があると指摘する。

脳死の最大の効用とは、人格的生存を解除された肉体の「公共財化」にあるといえる。医療は人間を死から遠ざけてきたが、従来の医療にとって生死の問題とは人1人の問題でしかなかった。だが移植医療により、生死の問題は人1人だけの問題ではなくなった。いまや、別の誰かの生死をも左右する問題なのである。こうした現実は、個体の同一性のあり方そのものを揺るがすものである。交換可能な人体は提供する側もされる側をも個体として生存し続けることのあり方を変える。 個体の複合化といえる自体が起こるのである。

臓器移植という医療技術の実践が、生理的機能的な把握の上に成り立っているものだとすれば、臓器の交換可能性と個体の複合化をそのままマテリアルに受け止めるべきである、と西谷はいう。人間とは、精神によってではなく身体性において人間なのであり、人格性は脳に起因するのでなく、この身体の複合性において人間となるのだ。人格的同一性とは、脳の同一性によってではなく、身体の複合性しかも医療技術によって交換可能な可変のものとして組織し直されるものである。「私」とは誰でもなく、誰でもないが故に、初めて「私」の生がある。そうでなければ、人格的死を被った消耗品として存在し抹消され、あるいは生き延びた人々の非人格的生存の体験は救われない。



脳死議論の大きな危機とは、固有性の喪失にある。人格という交換不可能なものがそれであり、あるいは患者本人の固有名詞がそれに当たる。大量生産、リサイクル、部品、交換可能という言葉が工業製品ではなく、人間の臓器に当てはめられる言葉となると、非常な違和感を覚える。中には倫理的な危機を感じる人もいるだろう。だが、西谷も指摘するように移植医療のみならず、人の生死を扱う医療そのものが資本主義化されてから久しい。その事実を素通りして、移植医療と脳死の議論のみに怒りを露わにすることは欺瞞であると思う。そもそも、現代において死という現象そのものが自然に訪れるものではなく、高度に管理された空間(病院)にいるおいて繰り返されるものである。それは語弊を恐れずにいえば流れ作業に近いものである。そして、そこに至るまでのプロセスも、人格的生存とは切り離された解剖的なものである。疾病と人格とは治療の過程で完全に切り離されている。

移植医療とは、複数の生死を扱うが故に問題にされる。そして、もう一つ重要なのは固有性から公共財化へのパラダイムシフトである。

脳死を前提とした社会において、人格的生存とは意味を持つことができない。そもそも前提となる「私」という自己意識、最小単位そのものが存在しないからだ。私たちの肉体は「リサイクル可能」なものであり、その意味で「誰のものでもない」。そして、この誰のものでないことつまり固有性の喪失にこそ、「私」が宿る。これは強烈なアンチテーゼで、ここには暗に「もはやそのような領域にしか、私(固有性)」という実存的体験は存在することができないことを含んでいる。

これが極限にまで進んだ医療技術と、それをはらんだ社会の出しうる解釈であるのだろうか。リサイクル化された人体を前提とする社会において、むしろ精神を土台とした人格的生存を語ることは、むしろこのリサイクル化・部品化を加速させることにしかならない。

一つの個体の中にあるものさえ、交換可能なものにしてしまうことは、直観的に恐ろしいことである。だが最も恐ろしいのは、それを可能にしようとする思想のパラダイムである。そして、それは大抵ヒューマニズムと社会的効用、つまり「みんなの幸せ」の皮を被ってやって来る。

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