「女のキリスト教史」竹下節子 ちくま新書

「女のキリスト教史」竹下節子 ちくま新書


宗教とは、世界がどのようにできているのかという構造を人類がまず最初に説明を試みた営みであると私は思っている。世の中にはなぜ善人と悪人とが存在するのか、死は避けられないものなのか……私たちの苦悩は尽きない。

だが誰もそのことには答えてくれない。そもそも、私たちはそうした人の力の及ばない領域に対する答える力を持っているのだろうか?

キリスト教は世界三大宗教の一つであり、その聖典の聖書は史上最も流通した本だとされている。キリスト教は普遍宗教に分類される。民族や時代、言語を越えて幅広く人々の間で信仰されている宗教の一つである。

人々は基本的に自らの所属する共同体や属性からは逃れることができない。だが、ある時点で自らの所属する共同体とはまた別の共同体が存在することに気がついた。そして、そこに所属することが時として自らを解放することに繋がることを発見したのだ。普遍宗教の特質とは、こうした人々の解放であったといえる。民族や国家、言語を越えた普遍宗教は人々が根源的に抱える苦悩に目を向けた。それは生老病死といえるものについてだ。そしてそれらの問いかけに答えるものが普遍宗教であったのだ。

本書はそうしたキリスト教内の、特に女性に対しての視線を問題にしている。

普遍宗教は従来の共同体や血縁、地縁といったものに縛られる人々に新たな可能性の地平をもたらしたのだが、それらが既存の権威と結びつくにつれ「権威化・世俗化」していった。そして、宗教の名の下に既存の父権的な社会の補完的役割を担うようにもなっていくのだ。このことは、著者の竹下も指摘する。



「普遍宗教」はどれも、先行する民族宗教の枠から離れ、共同体の掟や縛りから人々を解放する新しい地平を提供した。けれど、いずれの普遍宗教も、家父長的価値観を持った社会で生まれたため、やがて「宗教的権威」が世俗の権威と結びつくようになり、「護国宗教」「宗派宗教」へと変質してしまう。

父権制社会において、女性は長い間、共同体の制度設計に関わる「主体」ではなく、構成員の「財産」として扱われてきた。生産力が増大した社会では余剰の財産を、父が血の繋がった子供に確実に継承させるために、妻を「所有」する必要があったからだ。



竹下は「聖女」の扱いについて詳述しているが、キリスト教の暗部として魔女という存在についても取り上げている。そこにも父権社会において、「女」がどのように見られていたのかがよく分かる。彼女たちは、人格を持った「生きた人間」ではなく、所有されるモノに近い。キリスト教は世俗の権威と近づくことによって、女性たちに特有の存在感を与えた。その陽の側面が聖女であり、陰の側面が魔女であった。だが両者はどちらも裏と表で繋がっていると竹下はいう。



立法、司法、行政の機能と権力を効率的に構築、管理するために力を注いできた男たちにとって、聖女は、理屈では割り切れない神秘や、制御しきれない民衆のパワーや、飢饉や疾病で起こる絶望に対処するために必要不可欠な緩衝装置でもあり減圧装置でもあった。けれども「女」も「聖女」も、男たちによってはいつも危険で、永遠に謎めいた秘教の香りを発していた。その潜在的なリスクを管理する試行錯誤の中で「魔女」が登場した。「魔女」とは、男たちによって作り上げられた「もう一つの聖女」、闇の聖女だったのだ。



つまり、父権社会において女とは生身の人間であっては「ならず」、むしろ装置として存在することに意味があったのだ。だが、人知の及ばない領域、男たちの管理できない領域は必ず存在する。女という存在はそうした領域において都合よく使われてきた。キリスト教という強力な「補完的装置」によって、女たちの存在は長らく聖女か魔女かという限定されたイコンとしてのみあることを許されてきたのだ。

ここで問われるべきは、キリスト教の保守性というよりも、頑なに管理し、される側という二項関係によってのみ存在し続けた社会のあり方についてだ。そこでは、支配者としての男たちですらモノとして存在することになる。支配は新たな支配を連続的に生み、闘争は永遠に続いていく。宗教とは、本来こうした苦しみから人々を解放し教えを説くものであったが、そのベクトルは逆回転をしていく。それが宗教の世俗化であり、当初は画期的な教えで自らも新興宗教であったキリスト教でさえ権威宗教となってしまったのだ。

竹下はもう一つ重要なことを書いている。



近代以降、「人類の進歩」が科学技術の発展や生産力の増大、富の蓄積だけで測れるものだという「神なき宗教」が席巻した。それがほころびを見せ始めた時代に、本当の「進歩」とは、力や数だけでなく直感や共感力に根ざした超越的な何かを統合したところにしかないという気づきである。



人というものは、欲に限りがなく他者に対してどうしようもないほど憎悪を抱く。他人の痛みには鈍感であるが、自らの痛みには過敏だ。そうした人間の宿命ともいえる性は、そのまま苦しみとなって生を捕らえて離さない。そして、いつか必ず来るべき死についてできるだけ離れていたいと願う。だから束の間の快楽に溺れて汲々とする。生はその絶えざる繰り返しでもあるだろう。

だがそうしたところに、本当の安住はない。宗教とは本来人のそうした領域に光をあてるものであった。人の抱える苦しみはすべての人に共通する逃れられない普遍的なものである。だから、宗教のない地域というものはない。だが宗教と社会との関係を考えると、むしろ新たな支配関係や差別の再生産としての「装置」として私たちの前に現れるのである。

人が神について思いを巡らすことは、進化の発展的な影響による。人の脳はそのように進化したのだ。……とすれば、こうした支配や差別の再生産も私たちの抜きがたい本能の一つなのではなかろうか。


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