一生懸命働くこと
東京オリンピックが2020年に開催されると決まった時、私は18歳だった。当時は2020年代なんて、随分と遠い年のように思えた。その時の自分はちょうど25歳になっているはずだった。それも随分遠いことのように思えた。
25歳の自分は一体どこで何をしているのだろうか。期待と不安がないまぜになった複雑な思いで、当時のニュースを眺めていた。
その時はまさか自分が今の仕事についていることも、当のオリンピックそのものが延期になるなんて想像もしていなかった。
想像もしていなかったことは、働きだしてからたくさんある。最大の発見が、「一生懸命働く」ことの難しさ、非常識さである。
最近読んだ本に面白いことが書いてあって、働き蟻の労働感度(働く意欲のようなもの)は遺伝によって生得的に決まっているそうだ。だからがむしゃらに働く個体もあれば、そうでない一生を通じて働かない個体もある。だから蟻にも過労死というものがあるそうだ。人間の集団も同じで、ある研究によると組織のうち6割はほどほどに働き、2割は全く働かず、上位の2割が「一生懸命働く」人達だそうだ。
私にとって、一生懸命働くことは当たり前のことだった。けれど、組織の中で働く人の少なくない人達にとってそれは「当たり前」ではない。
働かない人達にとって、「仕事」は避けるべき面倒なことであり、その「ふり」さえしていればいい。ごく一握りの懸命に働く人達によって組織はかろうじて保たれているに過ぎない。私の職場もそんな風だと、最近つくづく思う。
そうした土壌を抱えている集団にとって、時として一生懸命さは鬱陶しく面倒なものにもなる。そうした意味で、一生懸命に働くことは非常識なものになってしまう。だがもっと小狡い人達は、そうした一生懸命さを利用する。働く人達に仕事を押しつけ、平気でいる。
私はそういう人達をレベルが低いと思っている。その人達の振る舞いを眺めるたびに、「一生懸命働くことは、そんなに難しいことなのだろうか」とつくづく思う。
仕事をやらない人達には共通項があって、口では偉そうな、それっぽいことを言う。だがそれが行動に移された試しは一度もない。プライドだけは高いけれど、面倒なことからは逃げる。結果としてこういう人は、仕事をやらない人から「できない人」へと落ちていく。そしてこういう人達によって、一生懸命な人は潰されていく。
働くことは時として命がけになる。過労死、自殺はその最も悲劇的な形だろう。私はまだまだ職業人としては下っ端で、権力もなにもない。ただこうして文句を書き連ねることしかできない。どうせ使われるならもっと頭の良い上司に使われたい。質の高いやり取りができる同僚がたくさん欲しい。尊敬できるような先輩がもっといて欲しい。要求したいことはたくさんあるけれど、そのどれもが満足に満たされたことは働きだしてから一度もない。産業組織心理学の分野では、企業内の2割の人たちは組織から適切なコミットメントを得られていないと感じているそうだ。私も今の自分をそんな風に思う。
だが、また別に考えることもできる。
今いる場所が嫌なら、そこから飛び出して新しい環境に飛び込むしかない。そこで退職・転職を考えているわけだ。
もっと良く考えてみれば、同じ日本人の中で働き続けることも限界なのかもしれない。同じ言語を話して、同じような教育と採用試験を受けて同じように働かされること。その中にある一生懸命さも、別の次元から見れば小さなことなのかもしれない。そう思うと、次に働く場所は海外の方が面白いのかもしれないと最近は思う。今はぼんやりと思うばかりだけれど、未来はどうなるかまるでわからない。
自分に今あるのは若さだけで、それはまだやり直しの効く未来の余白が多いことを意味している。賭けをする時期が、生きている中で一定期間あってもいいかもしれない。
私は今の自分を好きにはなれない。変えるためには環境そのものを変えた方がいい。だからやっぱり今いる場所から飛び出さなければならない。
一生懸命働くことは、私の中では当たり前であり続けるだろう。今度はその「一生懸命さ」というものを相対化して見なければならないのかもしれない。それが働くことの本質的な意味にもなるのだろう。
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