「マウンティング、沢尻エリカのドラマから」


マウンティング=根拠の不確かな属性……例えば夫、子ども、仕事、見た目などで優劣を決めようとする言動のこと。



沢尻エリカ主演のドラマ「ファーストクラス」はまさに、女同士のマウンティングをテーマとしたドラマだった。これが予想に反して面白かった。ストーリーの筋書きはシンデレラストーリーでベタなもの。

沢尻演じる吉成ちなみは衣料雑貨店の販売員をするごく普通の女性だ。だが、とあるきっかけで一流ファッション誌「ファースト・クラス」編集長の大沢留美の目にとまり、インターンとして編集部で働くことになる。そこには曲者揃いの編集部員たちがいるわけだが、これがまたみんな腹に一物抱えている。一見仕事を与えているように見えながら、失敗するように仕向けちなみをいじめるのだ。ちなみはそれに翻弄されながらも屈せず、次第に女のマウンティングに勝ち上がっていく、というストーリーだ。

女同士に真の友情はない、なんて言われるがホンネとタテマエの見事な使い分けは女性社会特有のものであるかもしれない。女同士のマウンティングは、自分以外の要素も多分に絡んでいるあたりに特色があるだろう。夫の会社や子どの進学先なども自らの階級を決める主要な要素である。ドラマの内容はそれに過剰な焦点を当てたものだが、女同士の関係性は相変わらずこうした視点から描かれることの方が盛り上がるらしい。私も面白く思いながら見たが、それはどこか共感できるところがあったからだろう。

冷静に考えれば、本当に余裕があり成熟した知的な人間であるなら、抽象的な要素のみで自らと他人を測るマウンティングの馬鹿さ加減に付き合ってはいられないはずだ。

だが多くの人がフィクションの世界だけでなく、現実の世界でもそれに思い悩む。それは私たちの不安の裏返しだ。人は、無条件で無償の肯定を根源的には求めている。それは子どもの内にあるような、根拠のない万能感によって無邪気に表されるものなのだが、成長するにつれ挫折する。こうした発達の過程で、人は「自分を知って」いくわけなのだが、できれば無条件で無償の肯定を与えられたいと望むものだ。言い換えるなら、「あなたはあなたのままでよい」ということを他者の内に認め、求めるのだ。承認欲求と呼んでもいいかもしれない。だがこうした無条件の承認とは、そう得られるものではない。いや、実際にそれが与えられたとしても社会生活の中でそれを感じる機会はかなり希少だ。せいぜいが家族か、恋人か、親密な関係にある人同士の中でしかそれは叶えられない。だがその家族ですら、希薄な関係性であることは珍しくない。そうした人間同士の関係において、人は分かりやすい属性に飛びつく。学歴、会社、会社内での役職、収入、配偶者の有無、子どもの有無……あげればきりがない。

単純に比較可能な要素としてのこれらは、とても重要なファクターとなるのだ。女性同士の関係性は、特に微妙だ。表面上は、みんな一緒であるように穏やかそうでありながら、机の下ではお互いの足を蹴りあっている、なんてことはよくある。3人で仲良く話しをしていたのに、1人が退席すると、残りの2人がその1人の悪口を言うなんてことはザラだ。これは長期的に見ればお互いの関係性を損なうことでしかない。人と人との関係性において最も重要なのは信頼である。こうした人を傷つける行為というものは、最も信頼を損なう行為だろう。そして、こうした表面上の浅い関係というのは、容易に裏切りが起こり、ターゲット(この場合だと、悪口を言われる対象者)が変わる。柚木麻子の小説「王妃の帰還」において、女子校の一クラス内のヒエラルキーが目まぐるしく変わっていく描写があるのだが、彼女たちの関係性を決定付けるものもまた、客観的に見れば至極曖昧なものだ。どのグループが一番「イケてる」メンバーを擁しているのか、という一点においてそれは決定される。そのイケてる、という要素も恋人の有無だとか素敵な両親がいるとか、直接彼女達自身の能力とは関係のないことで決定されていることも多い。だが、当人たちはそれが自分の能力の一つとして(しかも人よりも優れた点として)疑うことはない。

なんていうのか、そういう行動をくだらないことだと一蹴するのは簡単だ。私がここで大切だと思うのは、理屈ではくだらないと分かっていることをどうしてやめられないのか?ということだ。同時に、なぜ理不尽で非論理的な行動を繰り返してしまうのか?という疑問だ。行為そのものを問い続けることはナンセンスだ。なぜ、そうした行為が私たちの関係性の中に繰り返し、なくなることがなく存在し続けているのかを問うことの方がはるかに重要なのではないか。

それは、私たちの人間関係の築き方の浅さによるのではないか。他者への弱さは、同時に自分自身への弱さでもある。つまり、自己理解の浅さと弱さである。人と比べる人間は、根っこの部分で自分自身に自信を抱けないでいる。これは都合の悪いことであるから、大っぴらに意識はされない。その反転として、私たちは他者へとその否認と不安とを向けるのだ。それは関係の築き方となって現れる。それこそが、マウンティングの裏側、本性なのである。

ドラマ「ファーストクラス」は、そのエンターテイメントなのだが、私は話数を追っていくごとに、こうしたことに気がついて笑えるのだけれど、笑えなくなった。またドラマ内の男性陣は、どれも女同士のそうした病理的な関係性に気がつきながらも、誰もその最中に飛び込もうとはしない。添え物的に描かれるのみである。異性という異物は、女同士の中で時に決定的なものとなる。結婚や妊娠出産と直接結びつく存在であるがゆえに、そのカードは強力なのだ。そして、彼ら自身も自らのそうした地位(生殺与奪を握る存在として)に、どこかサデスィックな快感を覚えてもいる。ドラマ内の彼らは、あくまで脇役に過ぎないがどこかダラけて、にやけた、ふざけた存在である。

そういう異性の描き方も、なんだか示唆的だなと思ったところだ。ここには、固有名詞も顔もない、ただの記号と化した存在があるばかりだ。人間同士のやり取りは、市場経済でのモノのやり取りと酷似した乾いたものとなる。だから、人はそれぞれの属性や要素に過敏になり、憎み妬み合うのだろう。

だが私たちはモノではない。モノ的な関係性の中にとどまってはいるが、モノではない。この事実は変えられない。人として、生きている。またそのように生きなければならないのだ。そうした地平で、人間としての自己と向き合い、その先に他者がある。その中で見なければならないのは、あやふやな属性や要素でなくて、血や肉の通った体温ある「人」の心がどうあるかだ。

そうしたところで、マウンティングは初めてフィクションとなるのではないか。

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