自分の中の暴れ馬と、法華経

フロイトが意識と無意識を説明した喩えに、「騎手と暴れ馬」がある。

人の意識には、大きく分けて明確に自己で意識をされる部分と、そうでない部分がある。明確に意識される場所は、私たちが理性と呼ぶものでこれは社会で生活をしていく上で、私たちに「〜せよ」と秩序づけるところである。だが、無意識のうちにある領域は、そんなことお構いなしに自分の欲求を満たそうとする。フロイトは、これをエスと呼び暴れ馬に喩え、これを抑える理性(フロイト流にいうならば自我)を騎手に喩えた。



私にとって、暴れ馬とは何かを考えるとそれは「怒り」である。

どうしようも抑えのきかない、困ったものだからだ。怒りというものは、だが発散しなければ溜まっていく一方で、それも無限に溜めておけるわけではない。だから発散しようとするけれど、子どもがするようにはいかない。時と場所によって、その「表現」は考えなければならない。

しかし怒りの只中にいては、そういう些細なことすら気づけない。そして、全てが終わったあとに自己嫌悪に陥る。

社会の中で生きていくことは、自分と異なる他者集団の中で生きていくことだ。それなしに、社会生活というものは成り立たない。ここに最大のストレスがあり、怒りがある。

自分の好き嫌いを露骨に出す人。棘のある言い方しかできない人。感情を仕事に持ち込む人。私は子どもの頃、大人というものは、もう少し「大人」であるものだと思っていた。でも、どうやらそうではなかったようだ。子どもよりも、子どもじみて未熟な人たちばかりだと思う。

その中でも、人の心が分からない人が最も未熟で私が怒りを憶える人たちである。自分の言ったこと、やることに対して相手がどう思うのかまるで考えが至らない人がいる。私はこういう人たちの無知さと傲慢さがどうにも許せない。人は年長であるからとか、何か役職を持っているから、職歴が長いから、資格を持っているから……という理由で優劣が決まるのではないと思う。あるのはそれぞれの専門性と個性だろうと思う。誰が偉い、何が偉いというわけではなくて、何にフォーカスをしてそれを成そうとしているのか、という点だけだと思う。

だから私は自分のことも偉いとは思わないし、他の誰のこともその人が持っている考えは尊重するけれど、特別偉いとも思わない。

けれど日々をこなしていると、私のように考える人はそう多くない。人というものは、やはり誰かを自分の下に置きたがるものなんだなぁと思わされる。明らかに見下されたり、怒りをぶつけられたりすることもある。大抵自分よりも年上で、役職のある人たちと相場は決まっている。

だが私の心の中にも修羅はあって、私はそういう人たちを心底馬鹿だと見下している。無知で、長く生きていてもその積み重ねは何の教養も生んでいないんだな、と思っている。こういう所が、私の中の地獄なのだろうと思っている。



少し前から、鎌倉時代に興った新仏教について色々見ていた。特に他宗派を厳しく批判した日蓮について興味深かったので調べていた。彼は数多の経典を漁る中で、法華経の他に釈尊の真の教えを説いたものはないとして布教を開始する。

仏教に限らず、宗教には一つの特徴があってそれは社会の中で虐げられた弱い人々の間から広まっていくという点である。イエスもまずは貧しい人々の間で教えを説いて回り、日蓮も同じようにこれまでの仏教が相手にしてこなかった弱者に焦点を当てて布教を展開していく。

そして、宗教のもう一つの特徴とは過酷な環境から生まれるということだ。世界三大宗教はいずれも砂漠で生まれているし、鎌倉新仏教も「末法の世」と言われる不安定な時代背景の中で誕生している。

私は次第に日蓮よりも、法華経の方に興味が映ってもう少し知りたいと思うようになった。そんな時にyoutubeでNHKの100分de名著に法華経を取り上げたものがあるのを知って見てみた。これが結構分かりやすくて面白い。改めて釈尊という人の教えを考えると、彼は宗教家としてだけでなく、極めて優れた教育者であったのだと思わされる。

法華経は、釈尊が入滅を意識するようになった人生の終幕期にようやく説かれた経典である。全部で28章から成る経典だが、一部は後世になって付け足された箇所もある。法華経そのものは、釈尊の滅後500年経って編纂されたものだ。当時の仏教は、小乗仏教と大乗仏教に分かれ対立していた。その中で、般若経などは自分さえ救われれば良い、あるいは覚りは限られた高僧しか至れないという小乗仏教を批判した。「乗」というものは乗り物のことを指し、小乗という呼び方は、大乗仏教側の蔑称である。小乗に対し、大乗仏教は高僧でなくても覚りには至れる、としながらも小乗仏教の声聞(僧侶)や独覚(一人で覚りに至ろうとする人)は覚りには至れない、とする矛盾を抱えていた。

法華経はこの両者の対立を融和させ、さらなる高みへと人々を導こうと説かれたものだ。



法華経の第2章である「方便品」では、これまで自らが説いてきた教えというものは衆生にとって、覚りとはいかなるものかを分かりやすく解くための「方便」であったことが明かされる。

ブッダ(仏)の完全なる覚りというものは、あまりに深遠であるがゆえにすぐに理解をすることが難しい。そうであるから、さまざまな喩えを引いて釈尊はより分かりやすく教えを衆生に説いたのである。釈尊は、覚りとは誰にでも至れるものであり、さらに覚りとは遥か彼方にあるものではなく気がつかないが足元にあるものであることも説く。ここで、覚りに至る道は一つであることも強調する。

だが世の中にはさまざま考えな人がいて、声聞や独覚などと相容れられないように思える。また法華経の編纂された時代は、同じ仏教内で宗派が分かれて対立をしていた時代である。

法華経以前の仏教では、覚りに至る道を三乗といい、声聞、独覚、菩薩の3つの道があると説いた。だがこれは方便であり、本当に説きたかったのは「一仏乗」であったと言う。乗とは、成仏に至る乗り物のことである。それはただ一つであるということが、明示されるのだ。

釈尊は声聞、独覚のやり方を否定はしない。ただここで、「覚りに至る道は一つである」とだけ言う。批判も肯定もせず、それぞれの立場において覚りを目指しなさいと説くのだ。ゆえに、「誰であったとしても(たとえ悪人、女人であっても)覚りに至れる」と説いたのだ。

ここに釈尊の平等思想が現れている。



私が法華経の中で最も好きだなと思ったのは、「常不軽菩薩品」だ。サンスクリット語では、サダーパリブーダとなる。日本語に訳すと、「軽んじていないのに軽んじていると思われ、結果として軽んじられるが、最終的には軽んじられない菩薩」となるそうだ。

この菩薩は変わっていて、経典も読まなかったが人に会うと何処へでも出かけて行き、「私はあなたを軽んじません」と言うのだ。それを言われた相手は馬鹿にされていると感じて、石を投げて追い払うが、サダーパリブーダはただ逃げるばかりで、ひどいことを言われ続けても「私はあなたを軽んじません」とだけ言い続けるのだ。そのサダーパリブーダが亡くなる時に法華経が聞こえてきて、神通力を得た。そこでまだ生きなければならないと決心して寿命を延ばし、そこで初めて法華経を説くようになる。

サダーパリブーダは、人々から軽んじられ経典を読むという修行もしなかったが、「人を尊重する」という生き方を貫き通した。そして、この「人を尊重する」という姿勢こそが法華経の精神と合致して覚りに至れたというのだ。サダーパリブーダの在り方は、鏡にも喩えられるそうだ。鏡に向かって頭を下げればそこに映る自分も同じように頭を下げる。だから、まずは自分から頭を下げて相手を尊重するところから始まるのだ。私はサダーパリブーダのこうした在り方こそが、人に対する慈愛であると思う。



そして、もう一つ「等覚一転名字妙覚」という言葉だ。

覚りというものは、大抵遥か遠くの高みにあると考えられている。等覚というのが、仏教を学び始めた頃の心境である。そして、妙覚というのが覚りのことである。初め人は覚りの遥かな高みを目指すものであるが、そこで本当の覚りというものは、遥かに隔たった高みにあるのではなく自らの足元にこそあったことに気がつく。これを「等覚一転名字妙覚」という。

まずは自己を深く知ること、知ろうとすることが肝要である。釈尊は、方便品において声聞、独覚、衆生に対して「あなた達は理解をしていない」というが、それは「あなた達は自分がいかに凄いかを理解していない」と説いていく。ここに深く温かな仏教の眼差しがある。



法華経を学んでいて、やはり感じることは以下の3点に集約される。


1.全ての人々は平等である。

2.人を尊重すること。

3.自らを知ること。


そして、釈尊の優れた教育法である。彼は決して否定も批判も肯定もしない。あるのは、ただ受容の姿勢だ。そして、それぞれの違いや対立を受け入れながらも、さらなる高い次元へと思考(覚り)を引き上げていく。

ブッダの前では、全ての命は平等でありどんな人でも覚りに至ることは可能である。そして、サダーパリブーダという菩薩の在り方を示したように、その生き方が法華経に叶えば覚りに至ることもできる。その根本は、慈愛と尊重であり他者と自分を軽んじることをしないことだ。そして、自らの個性を認め、自らを深く知ることが一人一人が「一切皆苦(思い通りにならない)」人生の中で覚りへと至る道であるのだ。



このように、私なりに法華経をざっくりと理解をしてみると、自分の抱える「怒り」についての熱がスッと溶解していくような気がする。怒りというのもまた、人への無理解からくるものだとここでは思う。

対して、釈尊の人々へ注ぐ眼差しはどこまでも温かく優しい。人々が怒りを抱え、人を欺き、自己の利益を貪ることも彼は黙って受容するであろう。私がこうして、他の人たちを見下す心根も彼は受容をするだろう。説教されるよりも、それは心に響く。

法華経に書かれた釈尊の言葉、あるいは喩え話はどれも人の本質を突く。

あなたが他の誰かから、大切にされたいと思うのならまずは自分から頭を下げなければならない。それぞれ、私たちはみな違った個性を抱えており、時に対立もするし憎悪も生む。だが最終的に至る道(覚り)というものは、ただ一つである。その意味で、私たちはみな同じ存在でありどこまでも平等であるのだ。

現代でも通用する、シンプルでありながら真を突いた教えである。



法華経は、経典のみならず一つの思想書である。それはままならない人生についての生き方を示してくれるものだ。

その懐の深さに、私は改めて釈尊の温かさを感じずにはいられない。

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