ヴァシェ……実存

ジャック・ヴァシェという人物をご存知だろうか?

こんな風に聞いていながら、私は全く知らなかった。たまたま本屋でずらっと並ぶ背表紙を眺めていて、「戦時の手紙」という文字が目に入って手に取った。ジャック・ヴァシェという人物は、シュルレアリスム誕生の霊媒者でありながら、23歳で自殺をした詩人であるそうだ。

シュルレアリスムは日本語では超現実主義とも訳される一種の芸術運動である。シュルレアリスムでは、その多くが現実を無視したかのような世界を絵画や文学で描き、独特の非現実感を鑑賞者にもたらす。シュルレアリスムは、思想的にはフロイトの精神分析の強い影響下に、視覚的にはジョルジョ・キリコの作品の影響下にあり、個人の意識よりも、無意識や集団の意識、夢、偶然などを重視した。これは偶然性を利用し主観を排除した技法や手法と、深い関係にあると考えられることが多い。

さて、私もシュルレアリスムの技法は大好きだ。だが、ヴァシェの存在には不案内で今回原智広訳の「戦時の手紙 ジャック・ヴァシェ大全」を読んで初めて知った。個人的に面白かった箇所をまとめたい。



ヴァシェは「戦時の手紙」という知人たちとのやり取りの中で、重要なことを書いている。その最高点は、「芸術の徹底的な否定」であろう。


「……したがって、私は孤独でいることを望む。さらに言うなら、文学や、ましてや芸術なんてものはない。……芸術なんてどこにも存在しない。なんの疑念もなしに、それは断言できる。……だが、芸術は生み出されている。なぜなら、それはここにある『現象』として、また『偶然の状況として』浮かび上がる。コントロールすることは決してできない。……あなたは何故芸術を生み出そうと躍起になり、それを望むのか?」


この後でさらにヴァシェは「芸術家どもにもうんざりだ」と続ける。これは明確に芸術の否定であるが、それは「旧来の」芸術に倒する死刑宣告であることが分かる。ヴァシェの目に、芸術とは人工的に生み出され続ける理想ではなく、まさにそこにあるもの(現象)として在ったのだ。だから彼は孤独でいることを望む。

ここにヴァシェの特異な芸術観が現れている。



私が最も興味深かったのは、「自殺に関するアンケート」だ。ここでもヴァシェの冴えた思想の一端が現れている。


「私たちは生きる。そして、私たちは死ぬ。これら全ての意識の中で、一体何が意志によるものであろうか?私たちはまるで夢でも見るかのように自殺するようである。私たちがあなたたちに尋ねているのは道徳的な問題とは一切関係がない」


私たちは果たして、「生きている」といえるのであろうか?そして、もしそうであるのなら生から死へと至る道程の中のどこに私たちの「意志」が存在するのか?

ヴァシェの問いは私たちの実存の根本的なところに向けられている。ヴァシェにとって、この問題、自由意志の問題は極めて重要なものであったはずだ。そして、彼はこの「全ての意識の中」に私たちがある種の幻想として抱いている「全く自由な自らの意志」などありはしないと思っていたのではあるまいか?

そして、そこに「自殺」という最も人為的な「現象」が想定される。ここでヴァシェは警告している。この問いかけは道徳的な問題ではないのだ。

あるのは実存的な問いかけだけである。


「私たちは、この質問で、この薄汚い世界を浄化させ、人々の潜在意識の絶対的な変質を試みると共に、それらを実行する。もし、自殺がひとつの解決であるとしたら?私たちは一切の疑念なくその渦巻く潜在意識のの中で遊離せる魂となることを厭わない。愚鈍な感性の鈍い人々よ、あなたたちは自分と周囲のことにしか関心がない、全く無意味な価値観に捉われている。……愚鈍な彼らは自らが他人より優れていて、偉大なる人間だと信じて疑わない。……疲れ切った私たちの精神、これらの復活への道標として推し進め、最終的な救済措置として私たちは自殺を提案する」


さらにヴァシェは、新たな聖書の章句を生み出さねばならない、として自らの「救済措置」に宗教的な色彩を添えようとする。ヴァシェにとって、自殺の問題とはそのまま生の問題であった。そして、裏返せばヨーロッパ伝統の自由意志の問題があった。

だが、ヴァシェのこうした主張はあまり理解されたとは言い難い。この文章は「自殺に関するアンケート」である。アンケートであるからさまざまな立場の人間が答えている。聖職者、心理学者、神経病理学者……彼らの多くは全くヴァシェの問いかけに答えられていない。ヴァシェは道徳とは一切関係がない、と宣言しているが彼らの多くは宗教的な、あるいは自らの道徳の元でヴァシェを否定する。

それはほとんど自己欺瞞に近いようなもので、誰一人、真剣に自らの実存について無邪気にしか考えていなかったのだと思わされる。

私たちの意識の中で、一体何が本当に「私のもの」であると言い切れるのか?それはフロイトの無意識の発見によってさらに揺らいでいたであろう。だが、多くの人々、ヴァシェ流に言うのであれば「感性の鈍い愚鈍な人々」はこれまでと変わらず世界を生きていた。それをして、ヴァシェは「薄汚い世界」と見たのではないか?

浄化とはある種の啓蒙である。

旧来の人々にとって、この浄化とはかなり強引で時に冒涜のように映ったのであろう。だがヴァシェの洗練された自殺への問いかけは、表層的な道徳観で理想を語る「向こう側の人々」よりも遥かに切実で真実味があると、私は思う。



もう一つ、異様な熱量で書かれたのが終末部に付された訳者による「ジャック・ヴァシェの召喚」である。訳者は冒頭の「はじめに」において「ヴァシェを降臨させた死後の自伝」であるとし、その真偽は読者に委ねると書いている。それを踏まえて読んでみたが、その密度と熱量は異様である。これが真実か虚構かであると問うのは無粋なことであろう。

やはり、ヴァシェという人にあるのは拒絶と反抗であるのだと改めて思わされる。表面的には芸術への、プリミティヴに言えば同時代の愚鈍な人々に対しての拒絶と反抗である。


「ものを生み出すことになんの意味があるのかね?全ては自己満足に過ぎない、お笑い草だよ、自分が神にでもなったつもりかね?自分が選ばれた人間だと?自分は表現をするために生まれてきただと?全く馬鹿げていて相手にする気にもなれないね。それならお安い御用さ、私にだってただちに素晴らしいものが生み出せるだろうよ」


ここでヴァシェが唾棄しているのは、芸術本体ではないことが分かるだろう。彼が最も拒絶をしているのは、芸術の名を借りて自らを欺く人々の意識である。その意味で、「ものを生み出すことになんの意味もない」のだ。

私たちは、生から死へと至る実存の中にいる。重要なのは、そうした中で「どこに私(と意志)」がいかに在るのかというもので、そうした私が特別なものを生み出せるか否かというのは表層的な思索でしかない。

故にヴァシェはそうした浅いところに拘泥している人々を、徹底的に否定したのだ。それは最も醜悪な自己欺瞞であるからだ。

そして、自殺に対するヴァシェの眼差しからも分かるように、彼は死というものを忌避すべき現象とは捉えていなかった。むしろ、死という究極の存在の終末(拒絶)によってこの不定形で曖昧な存在は完結するのである。だから、真の意味で芸術が存在するのは、その死の中に他ならない。ヴァシェは、「真の詩句は死であり、死は真の詩句である」と書く。

無論これは、ヴァシェ「死後」の訳者による自伝であるが、ヴァシェの死への観念を追っていくと彼もそのように考えたのではないかと思うのだ。それは残念なことに、私たちに明確に伝わる言語という形は取らなかったが、ヴァシェが結果として23歳という若さで自殺によって人生の幕を閉じたという「現象」をもってして、感ずることができるのである。

死をもって、詩人ヴァシェはようやく完結を見たというべきであろう。ヴァシェの霊はこう書く。「そして私は全てを否定することによって、完全なる死となり、全ては完結する」と。

ヴァシェはその生き様で、自らの実存を私たちに知らしめたのであろう。



余談だが、こうした生死への向き合いは日本において三島由紀夫と似ていると感じるところがある。彼も割腹自殺という強烈な現象によって人生の幕を下ろした。

三島の作品に常に漂うのは、死であり死をもってして自らと自らの世界を完結させようという脅迫的な観念である。それは美麗な日本語によって、あるいは性的なモティーフによって時に隠され、時に誇示される。

そして、三島は病弱な自らの体をボディビルによって鍛え上げ、人工的な男らしさと筋肉を手に入れることによって、徹底的に拒絶した。彼の一挙手一投足は世間の格好の的になったが、そろはどこか冷笑を帯びたものであった。それは割腹自殺に至ってもなお、続けられた。

私は、三島は自らの死によって自己とその中にある文学(芸術)を完結に導いたのではないかと今改めて思うのだ。逆に言うと、三島の文学というものは、三島自身の死によってのみ完結するのであり、それ以外にはあり得ないのである。三島は自らの中にある女らしさを生前徹底的に拒絶し、死をもってして物理的にも精神的にも自らを完結させた。これは、凄絶な生き様であり、ただ自らの実存に「鼻をつまみながら生きている人々」にとってはただの蛮行にしか映らないであろう。故に、彼らは嘲笑うのである。

ヴァシェのように、死がなければ彼の作品も彼の存在も完結を見ることはなかったのである。人間そのものが、その死によって完結するというのは常人には理解され難い観念である。

生から死への循環とは極めて自然なことである。人間の実存のみが、この循環から免れているなどどうして思えようか。だが多くの人はここから目を逸らして、知らないふりをしている。これほどの欺瞞があるだろうか?

私は三島ほど人間の実存に迫ろうとして、それができなかった人はいないだろうと思っていた。だが、ヴァシェもまたそうであったのかもしれないと、ここで改めて思うのだ。



引用:原智広訳 ジャック・ヴァシェ「戦時の手紙 ジャック・ヴァシェ大全」河出書房新社

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