読書と精神の成長

読書にも、技術がある。ただ、つらつらと字面を読んでいるだけではつまらない……。

ショウペンハウエルの有名な言葉を引き合いに出すまでもなく、やはり最も大切なことは読書に限らず「外界から得たことを、いかにして自らの血肉にしていくのか」ということだ。

そのためには、外界からの刺激の一つである「読書」はどのようにすればいいのだろうか?ただ漫然と読むだけでは、どうして駄目なのだろうか。

M.J.アドラー、C.V.ドーレンの「本を読む本」は、まさに読書術についての本である。明確かつ整然として本について、読書について、そして本と読者の関係について書かれたものである。

さて、簡単にまとめてみたい。



熟練した読み方、高度な読み方とは一体どんなものをいうのだろうか。

著者は「自分の理解を超えた本を読むときにこそ」それがなされるという。文字だけを頼りに、理解しがたい「なにか」と対峙せねばならない。それは、受動的な読書でなくて積極的に働きかける読書である。「浅い理解から深い理解へ」と読み手を導く読み方なのだ。

逆に言えば、良い本というものはこうした高度な読み手のために書かれた本なのである。

読書にもレベルがある。

まず、「初級(エヘレメンタリ)読書」である。これは読み書きのできない子どもが初歩の読み書き技術の習得のために行う読書のことである。

次に、「点検読書」である。時間に特徴を置くことがこの読書の特徴である。拾い読み、下読みと呼んでも差し支えない。これは「系統立てて拾い読みする」技術である。

その次は、「分析読書」である。この読書は徹底的に読むことを指す。点検読書が時間に制約のある場合の最も優れた読書であれば、分析読書は時間に制約のない読書である。分析読書では、読み手は本の内容に関して、系統立てていくつもの質問をしなければならない。

最も高次元の読書が、「シントピカル読書」である。これは、比較読書法とも呼ぶことができる。一つの主題について、複数の本を関連づけて読むことである。また、シントピカル読書は最も報われることの多い読書活動でもある。

「その文は何について書かれているのか」という段階から、「その本は何について書いたものであるのか」、「具体的にその本はどうやって構成されているのか」、「本には明示されていない主題はなにか」というように、螺旋状に読書の理解は深められていくことが望ましい。

高度な読み方とは、その本に書かれていることを分析比較するところから始まる。その事柄に関する事実や関連を見つけることができなければ、単なる「言葉遊び」に終わるだけだ。

分析的読むことができなければ、言葉の背景にあるものを掴むことができず、言葉だけが空回りをしてしまうからだ。

もう一つ大切なことは、本を正しく批評することだ。

読書とは、対話である。読書は、著者の一方的な語りであると思われているがそうではない。最後に判断を下すのは読み手なのである。著者に語り返すことは、読者に与えられた機会であり義務でもある。良い本とは、このような積極的読書に値するものである。

さて、読書術を見てきたがそれも「何を読むのか」によって変容する。当たり前のことだが、「教養書」と「文学書」では異なってくるのである。もちろん、積極的に読むことは大切なことである。

教養書とは、知識を伝えようとするものである。これには判断力と推理力、知性を働かせなければならない。文学書とは、一つの経験を私たちに与えてくれる。経験には感覚と想像力とが必要である。問題は、どちらに重きを置くのかということである。

教養書を読むときは分析的に知的に読まなければならないが、文学書の場合は無防備に作品と対峙することが大切である。

最も高次元の読書とは、読み手の積極的かつ知的な姿勢が優先される。複数の本から共通する命題を導き出し、明示されていない著者たちの答えを見つけ出していく。できるだけ多角的な視点から問題を検討して、より深く考えを深めていくのである。

質の高い読書は、私たちの精神の成長を高めてくれる。それは生きるという行為そのものを豊かにしていくものである。




私にとって本を読むことは、一つの習慣である。あまり系統立ててその行為について考えたことはないけれど、同じテーマのもので複数の書籍を読んでいくことは好きだ。私にとっての学びとは、具体的にはこうしたことを指す。

最終的な目標は、共通する普遍的な原理をその中から取り出してみることだ。それは容易なことではないけれど、だからこそ「やりがい」のあることでもある。

私がちゃんと本を読み始めたのは中学生の頃だったと思う。それは、当時訳の分からない「悩み」を抱えていたからだ。敢えて言葉に直してみると、それは「生きづらさ」とでもいえるようなものだ。

だが、誰もこの「生きづらさ」について教えてくれないし、答えを見つけてもくれない。そうした現実に限界を感じていた時に、おそらく私は無意識的に本を手に取ったのだろう。

本書の訳者があとがきで、「若い人が読書をするのは、時間つぶしではなくて自己を改造しようとしている場合がある。……本を読み、第二次的現実を作り上げ、その中に没頭する」と書いている。

読書は、多感な時期において一つの精神的バリアーなのであろう。

「青年に訴える宗教に欠けている我々の社会においては、読書は若者の宗教である」とも書いている。質の高い読書は、私たちの精神の成長を高めてくれる。それは生きるという行為そのものを豊かにしていくものである。

昔、ACジャパンだっただろうか。私の好きな読書のキャッチコピーに「読めば君の知層になる」というものがあった。読書は対話であるという言葉が出てきたが、私もそうだと思う。

もっと言えば、本との出会いそのものが人との出会いと同じようなものである。求めれば、本の方から私たちの方へと歩み寄って来てくれる。これは言葉で表すことの難しい感覚、現象であるがこれこそが読書の醍醐味であると思う。良い本というものは、良い教師になってくれるものだ。初め読み手は、従順な生徒を演じるであろう。だが次第にそこから抜け出て、どこかの段階で批判的に教師を分析する必要があるだろう。そこから読み手は、独自の洗練された思考・思想へと至れるだろう。

それこそが、最良の読書でありそこへと導いてくれる本が真の良書であろう。

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