文の鋤

人と本との心地よい距離感とは、一体どんなものだろうか。

そのことを最近ふと考えていた。そこで私は自分の幼少期 (といっても小学校低学年頃くらいかな)について思い出すことがあった。

初期条件というものがある。平たく言うと「生まれ」という意味だ。具体的には、自分では選択のしようがない環境や属性のことだ。それは性別や国籍、地域、そして親の教育方針にも至る。積極的な養育をする親の元に生まれるのか、放任的な養育をする親の元に生まれるのかは、その後の大学入学率を左右するとも言われている。

さて、私の母はよく読み聞かせをしてくれた。よく読み聞かせをしてくれた、ということはそれは本棚にきちんとそれなりに本があったということになる。思い出してみると、私の家の本棚にはそれなりに本があったように思う。

そこには、まだ私が読めない本もたくさんあった。覚えているのは、確かギリシャの神話集と宮沢賢治の全集のようなものが一番高いところに置いてあったことだ。

私はそれがどんな内容なのかは分からなかった。でもなんとなく、今の自分にとっては難しい内容だろうということは理解できた。

だから、「いつかあの本を読もう。読めるようになろう」と漠然と思っていた。

結局その後に引っ越してしまって、そこにあった本は霧散してしまった。

だが高校生の頃にはギリシャ神話も読んだし、宮沢賢治も手に取れる分だけ読んでみた。


「いつかあの本を読もう。読めるようになろう」


人と本との関係や距離感というものは、ちょうどこんな風にあるのが心地よいのかもしれない。そういう漠然とした関係で、案外良いのかもしれないと思う。



そんな私が駅前の本屋で見かけるたびに、「いつか買おう。いつか読もう」と思いながら通り過ぎていた本があった。

ちくま学芸文庫の「高校生のための文章読本」だ。ぱらぱらと中身をめくったことは何度もある。でも、なんとなく買わないでいたものを先日やっと買ってみた。

そして一気に読んでみたのだ。

この本は「文章を読み込んで、書けるように」なるためのいわばテキストになる文章を載せている。それはエッセイであったり、小説であったりと様々だがどれもとても読みやすくて楽しい。

この本によると、良い文章とは以下のようなものを指す。



「良い文章とは」

1.自分にしか書けない(個性的・主観的)ことを、2.誰が読んでもわかるように(普遍的・客観的)に書いた文章。



たとえば、言語化の難しい感情や行動や現象がある。そういうものは無意識の中にあるが、まずそういうものに「気づく」のかどうかが個性の分かれ目になるのかなと思う。そして、それを自分以外の他者にも伝わるように共有できるように、文章を書けるのか。

さて、文章をミクロに分解すると、当たり前だがそれは一つ一つの言葉になる。武満徹は「吃音宣言」の中で、こんな風に書く。



自然科学の発達につれて、われわれの語彙は際限なく膨らんでいるけれども、言葉は真の生命のサインとしてではなく、単に他を区別するだけの機能に成り下がった。もはやそれ自身には、恐怖も歓喜の響きもない。言葉は木偶のように枯れて、こわばった観念の記号と化している。文を書くということは、やわな論理と貧しい想像によって言葉を連絡することだけのようである。



易しく言うと、私たちは非常に言語の溢れた世界にいる。だが、私たちは本当に「私たちの言葉、私たち自身の言葉」を獲得してきたのだろうか?

言葉というものは、私たちを区別し時に管理もする。それは科学の発展と無関係ではないけれど、言葉をそのような「木偶のように枯れ」ている存在のままにしてよいのかという武満の怒りのような思いがある。同じく「吃音宣言」の中で、武満は「芸術が生命と密接につながるものであるならば、ふと口をついて出る言葉にならないような言葉、ため息、叫びなどを詩と呼び、音楽と呼んでも差し支えないだろう」と書く。これこそが、本当の意味での私たちの「獲得した言葉」であり、彼にとって芸術であり得たものだろう。

ふと口をついた独り言、溜め息にすらなんらかの意味(言葉)を付与される現代。それは裏を返せば、私たち本来の「肉体を伴う言語」を獲得していない時代でもあるのではないか。

どうだろう。



詩でも小説でも、畑は違うけれど絵や音楽でも表現する人が欲するもの。

それは個性であったり、同じようなもので独創性である。それが、表現する人間にとって悩みのタネになる。

モーパッサン文章は、そう珍しいことを書いていないけれどとても真摯だと思う。



もしなんらかの独創性を持っているならば、なによりもまずそれを引き出すべきである。もしも独創性を持たないならば、なんとかしてそれを一つ手に入れなければならない。



どうすれば引き出せるんだよ!

とツッコミたくはなるが、その答えを自分の外部に求めているばかりでは独創性の欠片も引き出せないままだろう。

イマドキの……と言う気はないけれど、現代の私たちはあまりにも、自らの内部との対話が限られていると思う。独創性というものは、私たちの内部に掘り起こされないまま眠っている。それを掘り起こすには、まず孤独になること。外部にある雑音から、一度静かに距離を置くことが大切だと思う。むしろ、そういう雑音を冷静にまるで解剖でもするように理知的に眺めることが大切ではないか。

そして、そういう自分を他者との関係性の中でもう一度ど描き直すことを試みよう。



文章を書くということは、アウトプットである。自分の中にあるものを見える形にして、出すこと。

その中で、文体というものが問題になってくる。文章はただ意味の伝わる言葉の連続体であれば良いというわけではない。特に文芸においてはそうだと私は思う。

文章ではなくて、文体でなくてはならないと思う。

「高校生のための文章読本」には、各項で取り上げられた文章について編集部の簡単なコメントを付した欄がある。そこに、文体について書かれている箇所がある。



文体は単なる文章の個性的な調子や味付けではない。それは、作者が書こうとすることを実現するために、不可欠な方法として選ばれた様式であり、いってみれば作戦を成功させるための戦術なのである。つまり文体は、作者のもくろみを映し出す鏡なのだ。文体がもし個性的だとすれば、それは作者が書こうとするテーマ、作品に込めた抱負が個性的だからなのだ。逆にいえば、人間的にどんなユニークな人物でも、書こうとすることが平凡な内容、ありきたりの主張、安易な姿勢であれば、文章もまた本当に個性的なスタイルを持つことはできない。



いずれにせよ、真の主役というものは文章でも文体でもない。それを書こう、表現しようとする作者 (人)である。

私たちは何を考え、何を書こうとしようとしているのか。そして、何が私たちにそのきっかけを与えるのだろうか。

私はその一つが読書だと思う。ここで、一番最初に戻るのだ。原初の読書体験、本との距離。


「いつかあの本を読もう。読めるようになろう」


よく分からないけれど、たしかに横にある存在。乱暴に言えば、それは本でなくてもよい。その人の中に波紋を投げるものであれば、それは生身の人間であったって、構わない。

「いつか」と、「なろう」。

この感情と、距離感から多分全ては始まるのだろう。

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