そこに、悩みがあるから

どうして、あなたは文章を書くのですか?


そう聞かれたら、私は真っ先にこう答える。

それは「悩み」があるから、と。

「悩んでいるから」だ、と。


では何に悩んでいるのかと聞かれれば、それは「分からない」と答えるしかない。逆にいえば、この「分からない」ところに私は一番「悩んで」いるのかもしれない。

それが、私にこうやって文章を書かせていく。

私は、自分が本当に生きていくために必要なこと大切なことは何も知らないんじゃないかと思うことがある。

だがそれは、学校でも教えてくれないし、私よりも歳上の人たちも教えてはくれない。金で変えたり、金を払えば教えてくれるような代物でもない。

だからそれは、「分からないまま」であり続け、私はそれについて「悩み」続ける。



文章を書くことは、私にとっては一つの表現である。

それは自己についての表現であったり、他者へ向けての表現になることもある。だが一番は言葉にしようもない、今抱えている私の「悩み」に対する表現だ。

ちくま学芸文庫の「高校生のための文章読本」という本の中に、こんな一文がある。


表現は第二の現実である。


私の五感や経験 (主観)で生きられる世界を第一のものだと考えると、この文章も含めて書かれるものは、「第二の現実」となるのだ。

それを表現しようとすることで、私はなにをどうしようとしているのだろう。



私たちは、自分のことについて、あるいは自らを取り囲む現実について分かったつもりになっている。

生きていれば、私たちは外部から様々な言葉によって社会的立場によって区分されていく。

ある時は子どもであったり、学生であったり、社会人であったり、父であり母であり……。

それは無尽蔵に、無限に付与されることが可能な記号だ。

そうした記号の集合体として、「私」というものはできあがっていく。


だが、それは本当にそうなのだろうか?



たとえば、私は私を知覚する手段の一つとして他者を使う。他者と出会う。

正確には他者から向けられる視線によって、私は「私」について知ろうと、知った気になる。

だが、私にとってこの他者とはどんな存在なのだろう。本当に、他者というものによって私は自分の奥深く、私でさえ知らなかったところに辿り着けるのだろうか。そして、そうしようとすることは正しいことなのだろうか。



こうした行為を通して、私は「生きている」と思う。生きる行為とは、こういうことであると言えなくもない。

私はこの生きる行為について、多分「悩んで」いるのだと思う。

怖がっているわけでもない。怒っているわけでもない。哀しんでいるわけでもない。まして、絶望しているわけでもない。

ただ、この「生きる行為」、「悩み」というものは、あらゆる感情でラベリングのできないものである。そこに、多分私の根深さというものがあるのだと思う。

突飛なようだが、音楽についての一つの定義がある。


音楽は言葉を探す愛である。


表現というものは、こういう名前のつけようのないものに、存在を与えようとする「足掻き」だと思う。

音楽が音でもってする足掻きであるなら、文芸はそのまま言葉でもってする足掻きだろう。



別にそれを、私は特別なことだとは思わない。美しいとも思わない。こういう悩みをもってして、「文学だ」とも思えない。

それは一人の自意識の中で閉じられた、ごく小さな葛藤だと思う。


あなたはどうして、文章を書くのですか?

文章を書くことを選んだのですか?


私には悩みがある。それは、とても微細な悩みだろう。そのために、私は書く。

だからそれは足掻きなのだ。

足掻きでしかない。



あなたにとって、文章とはどんな存在ですか?

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