揺らぎに入ってゆくこと

前回のエッセイで、「目には見えないもの」への眼差しの向け方について鷲田のエッセイを例に取り上げた。

私は以前、美術館でこの「目には見えないもの」の中に自分自身が入ってゆくことを経験したことがある。それは不思議な体験だった。

とある展覧会の常設展で、聞いたこともない女性の現代芸術家の作品だった。それは部屋いっぱいを使った作品で、中央には布で編み込まれて作られた左右に割れた巨大な「脳」が天井から吊り下げられていた。見る人たちは思い思いに部屋をめぐってその作品を楽しむ。ひときわ目立つのはやはりその布でできた脳で、左右に割れた空間に自然と吸い寄せられてしまう。そして、その視線の先にはスライドショーが映し出されて断片的な意味の掴めない映像が繰り返し繰り返し映し続けられていた。

また布で作られた脳からは様々なオブジェが吊り下げられて、冷房の風でゆらゆらと揺れていた。

私はこの不思議な作品の意図について、最初は全く掴めなかった。なんとなく歩き回り、自然と左右に分かれたあの空間に立った。ぼんやりとスライドショーを眺めていると、はたと思い至ったのだ。


あぁ、これは人の意識なんだ。


それは芸術を通して可視化された「見えない意識」だ。

そして、スライドショーや、様々な象徴化されたオブジェはトラウマであったり希望であったりを表しているのではないか。そう見えてくると、俄然この作品に興味が湧いた。

部屋全体が一つの可視化され、巨大化されて意識になるのだ。私はその中に細胞の一つのようになって、ぐるぐると回る。

本来は見えない意識の中に潜り込んで、驚き感心する。

恐らく鑑賞者のこうした反応も含めて作品の一部なのではないか。私はそんな風に思いながら、常設展を後にした。



これは私にとっては大きな体験だった。

現代芸術の一端をそこに見たような、そんな気すらしたのだ。

改めて鷲田のエッセイを読むと、「見えないもの」と相対したこの体験がよりはっきりとしてくる。見えないものの存在とは、私たちが思っているよりも複雑で巨大である。そして、少し不気味だ。



もう少し一般化して、この「見えないもの」との対峙を取り上げるのなら、それは他者との出会いだろうと思う。

私と根本的に異なる他者という存在には、普段は覆い隠されているものが鏡のように映されるからだ。

価値観や自己意識や、エゴなど私たちは他者の言動を目の当たりにしてようやく内部にある複雑なものたちを「見る」のだ。

また、私自身の内部にある他者性もまた閉ざされたものを切り拓いていく。

それは無意識であったり、トラウマであったり、許すことのできない考えであったり……そういった様々なものが、「私自身」には還元されずに内部に抱え込んだ「他者」として存在する。

こうした他者というのは、普段あまり意識はされない。だが生きていると、ふとした時にそういったものが現れてくる。それは無数にあることで、私たちはそういうものたちに時折削られて傷つく。

美術館での無邪気な体験とは、対極にあるものだ。



「揺らぎ」という言葉が私は好きだ。

私たちの存在は絶え間のない「揺らぎ」の中にある。その振動の中で、私も他者も生も存在している。

今の社会の生きづらさというのは、こうした「揺らぎ」を許さず、徹底して何ものか定義し固定するところにある。その意味で使われる「言葉」というのは枷であり枠である。

目には見えないものの中に入ってゆくこと、あるいは意識することは「揺らぎ」である。

そして、「揺らぎ」を意識することである。

想像とは、その「揺らぎ」に至るささやかな試みだ。

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