不安の澱、無知のカーテン

中原中也の未発表評論を読んでいる。それは「感情喪失時代」という評論だ。これは一種の社会評論だ。中原は冒頭で、「現代は不安の時代だと言われる」と書く。その理由をある人は「理智の欠乏」であるといい、またある人は「共通信条の不在」だという。

中原自身は、「感情の喪失」の状態にその理由があるのではないかとする。

この感情について、中原は『「独り居て怡(たの)しむ」底の感情、対人的に発露するに非ざる、そこはかとなき欣怡の情である」とする。

不安の原因が理智の欠乏であるとするなら、私たちはその滋養に取りかかればよい。共通信条の不在が原因であるなら、その探求に取りかかればよいだけである。

だが、感情の喪失が原因であるなら人はまず心身を休める必要がある。こういう点で、前者の2点と後者は違ってくる。

以上のような簡潔な社会評論なのだけれど、中原の生きた時代からして「現代」とは「不安の時代」であったのだ。



私は「現代」という時代に生きている。だが、「現代」とはなにか?

それがイマイチ掴めないでいる。

現代は豊かである。技術で空間と時間、そして肉体というものすら超えることができる。ここでは自己意識というものは無限に広がりうる。だが、何かが足りないままだ。何かが満たされないままであると、私は思う。

それはある種の基礎単位になっている。現代をミクロに見てみると、表層的な豊かさや万能さの裏側にある単位が存在している。

私は繰り返し、現代の基礎単位は不安と無知だと書いてきた。何に対する不安か、何に対する無知なのか。そこが肝だ。

そこに、現代という時代の核があると思う。その文脈において、現代という時代は説明されるように思う。



不安と無知。

何によって私たちは不安となり、ある種の無知に陥っているのだろうか。不安とはまず生存の不安であり、無知とはただ何も知らない状態をいうのではない。

現代人にとって、生存とはそのまま生命そのものを土台とはしない。それは意識・価値観を守り抜く(信じ込む)ことにおいての生存である。そして、無知とは変わりゆく時代の中にあって、旧来の自分と親和性の高い神話や意識、価値観に固着し続けることをここでは指そう。

「現代思想 1月号」では、こんな風に書かれている。



「現代は、解体の時代である。解体の時代においては、国家や社会制度や地域社会や家族や個人の心身に着目するだけでなく、その深層にある、世界、現実、生きることの支え、人間の条件とでもいうべき水準にまで考察を進めることが求められている」



解体されたもの。

それはこれまでの神話であり、常識であり、空間、肉体のことだろう。

神話の中身は、学校であり企業であり国家であり、そして家庭であった。では、それらに代わる新たな「何か」は立ち上がったのだろうか?

それは未だに曖昧なままだ。現代人にとって、近代の意識は集団から個人意識の目覚めとともに始まった。だが個人は不安定なまま、失われた土台を支えるには足らない。

そして個人というのは、歪な形のままある部分は肥大化し、ある部分は貧相になっている。ある段階で成長することなく留まった自意識。それは固着を招き行き着く先は無知そのものである。だがその固着と固着を起こしている対象物は、完全には個人を癒さない。自己肯定や自尊心というのは、あまり意味をなさない。広がりゆく現代と、超えられていく空間、時間、肉体にあってその中心にある個人という意識と枠はあまりに無力で小さなものだ。それはやがて不安という単位を作り出す。

解体と無知と不安。これはメビウスの輪だ。

現代の底流とは、つまりこういうものなのではないか?



そうした輪の中で、私たちの生き方はどのようになっていくのだろうか?

肝心なのは現代がどういう時代なのか、ではない。その中にあってどう生きることができるのかという点である。

「現代思想 1月号」での対談内にあった内容がかなり腑に落ちるものだぅた。



「……僕の個人的な印象ですが、昔は何か問題があるとそれに対していかに意見を言ってちゃんと考えるかということが重要だったのに対して『もうやめてしまえばいいじゃないか』という態度こそがエンパワーメントになる時代にどんどんなってきたと思います。もう少し一般化して言うと、対立状況の中で否定的なものと両義的な状況で付き合い続けるということを頑張ってやるのではなく、そのような両義性を捨ててしまえ、という方向に向かっているという印象があります」



大切なことは、別に対立するものに対峙する姿勢や時代なのではない。

異質性との向き合い方なのだ。それが、従来と現代では根本的に異なっている。それが現代の現代である所以であり、特有さなのだろうと思う。

自らに否定的なもの、つまりは異質なものへの過剰な逃走。この意味することは自己にとって親和性の高いものへの過度な固着であり、無知であり裏返しには不安がある。もちろんどの時代であっても、そうした種類の固着、無知、不安はあっただろう。だがそれを受け止める土台は家族という集団であり、社会という集団であり、時には国家という巨大な集団であった。

だが現代にそうした集団はすでにあるようでない。グローバルというのは、緩やかな解体であり美しいある種の解体である。現代におけるこうした不安の土台というのは、個人という極小さな枠のみだ。それは個々人がそれだけ成熟したという受け止めも可能だろうし、かつては家庭や社会や国家が成していたものが個人の中にも等しく行き渡っていると解釈することもできる。

だが、そうであればなぜこんなにも私たちは虚ろでいるのか?

心の底からは幸せとは言えないでいる。中原ではないが、何かが失われたと漠然と感じている。そして、不安の澱は取り除かれない。



私はこんな風に思う。

個人というのは未だに根無し草で、表面的には私たちとその他の境界を覆っているかもしれない。だが、それは私たちを深いところまでは連れて行ってはくれない。かつての集団を追いやったのは個人という強力な信仰だ。その個人が曖昧な中を漂っている。集団にももはやかつてのような包容力はない。

私たちは、宿命的に生存の不安と無知さを抱えている。そのやり場が、ない。一人一人は名前のない海に沈んでいる。

私たちはその中でどう生きていけばいいのだろう。何をすれば生きていることを実感するのだろう。他人を蹴落とすことなく、傷つけることなく……。




参考・引用

「現代思想 1月号」

人新世的状況における「人間の条件」の解体についての試論 篠原雅武


マジョリティとはだれか

岸政彦 信田さよ子

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