(ネタバレ有)芥川賞受賞作 1R1分34秒感想
正直なところ、あまり期待はしていなかった。それが読んでみると、ここ数年の芥川賞受賞作の中でも一番良かったと思う。次点で挙げるなら「コンビニ人間」が良かった。あとはあまり面白いとは思えない。同時受賞の「ニムロッド」は、まあまあといったところか。
さて、「1R1分34秒」の主人公はライセンスこそ持つプロボクサーだが弱小で連戦連敗だ。そして、彼は対戦相手を徹底的に研究する頭脳派なボクサーなのだがこれが毎回仇となる。対戦前に、その対戦相手と「親友」になってしまうのだ。試合のビデオ、SNS、そして浅い眠りの中で見る対戦相手との夢。それらは思い込みに過ぎない。そういうものが、試合後に打ち砕かれていく。
「あんな奴、親友でもなんでもない」
それでも主人公は、試合が決まるたびに対戦相手と親友になってしまう。
だが弱小ボクサーに、トレーナーですら見放していく。主人公には「ウメキチ」と呼ばれる現役のボクサーがトレーナー代わりに付けられる。このウメキチとの交流、そしてボクシングを通して、内気で人見知りな殻にこもった虚無感に囚われた主人公を変えていくのだ。その過程が丁寧で、微細な運びなのだがとても良い。
人間の弱さ、人を拒絶しながらも都合良くその温もりを求める傲慢さ独りよがりさを描くのが上手い。主人公はジムでアルバイトをしているが、そこに来た女の子との関係がそれを別のベクトルから描写していると感じた。
「素直にヤらせてくれてありがとう」
端的な一語に、嫌悪も軽蔑も不思議と感じないのだ。こういう無気力で虚無感は誰の中にもある。主人公はそうした虚無の中を、ただ流れているだけだ。プロボクサーとしての夢はいつの間にか格下げされ、その日その日をなんとなく過ごしていくことに置き換わっている。
主人公はとにかく内気で、自分に自信がない。人を殴るというボクシングをやりながら、そこから描かれる輪郭は「ひ弱」な感じがする。私はトレーナーの「ウメキチ」の方が人間的には魅力があるし、性格もすっきして好感が持てると思った。
過酷なトレーニングと減量を通して、ウメキチと主人公は少しずつ距離を縮めていく。次の試合が決まってから、その心の壁は綺麗に取り払われていく。本作の何よりもいいところは、結末をあえて描いてないところだ。試合に臨む前で幕が切れる。
主人公は最後、「生きる力」に開眼する。それは「希望を見つけた」という生ぬるいものではない。その日その日を凌ぐためのトレーニング、ボクシング、その反動で膨れた性欲を発散させるためのセックスや女性関係といったものが霧散して、前を向くのだ。
「自分じゃなく、世界を変えたい。自分の目のレンズを濁して世界を修正するのはもういやだ」。
だがその結末は描かれない。彼が勝ったのか、負けたのか、ボクシングは続けるのか、ウメキチとの関係は続いていくのか。そういった一切のことは説明されないまま、終わる。
私はこうした幕の引き方が好きだ。懇切丁寧に説明しすぎる小説は嫌いだ。「それでどうなった」という余白を残す書き方ができる人が本当に上手いと思う。本作はそういう意味で、全体的に質の高い小説だったと思う。
本作の主人公は弱い。
ボクシングもそうだし、人間的にも弱い。純文学の主人公は、往々にして鬱々として弱いものが多い。本作の主人公は、そうした弱さとは微妙に違っている。従来の純文学が病弱で厭世的な文学青年チックな人物を主人公においていたとするなら、本作は現代人特有の虚しさ、諦観、「冷め」を宿している。
いうなれば、先進諸国に現れた典型的な現代人。だが彼らは何かに飢えて何かを求めている。それは第一に他者からの承認である。だが最も彼らに必要なのは、確かな自己肯定感なのではないか。
それは自惚れではなく、生きる力だ。これまで自分のためだけのボクシングが、誰かのためのボクシングに変わっていく。これまで、トレーナーも女の子も、強くなる練習すら自分のためだけのものだった。そこに双方向性はない。
だが、終盤で主人公は初めて誰かのため(ウメキチのため)に目覚める。他者という異質性との出会い。そして、それとの調和、双方向性。人はそうした陶冶を通して目覚める……そのことを改めて感じさせてくれる作品だった。説教くさくなく、押し付けがましさもなく、それでも確かな手応えのあるものとして。
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