小説雑感

久し振りに、小説について考えてみる。小説とはどんな存在かをまず考えてみると、それは「世界解釈の一つの拠り所であり、方法」ということになる。少なくとも私にとっては。

書かれているものがフィクションか、ノンフィクションかを問わずに、それは一つの解釈だと思う。それは誰にとっての解釈かと問われれば、第一には作者であり、小説とは「読まれる」ことを前提としていることを考えると読者というのも二次的には関わっているものだとも考えられる。

少し前に、丹羽文雄という人の「小説作法」という本を読んでいた。私は普段そう考えて小説は書かない。ただ書きたいテーマを考えてから、その肉付けとして人物や展開を考えていく。別にそれが上手いこといっているとは思わない。私は自分の書くものが「小説」といえるのかそう胸を張れない。なぜ「小説」という方法で表現しなければならないのかということはたまに考える。

表現方法なら、絵でもいいわけだし音楽でもいいわけだ。文章表現にしても小説の他に詩もあるし俳句や短歌という手だってある。そうそう、エッセイでもいいじゃないか。

でも私は小説という方法を最も取っている。

丹羽文雄は「小説作法」内において、「小説は人生の批判解釈であり、人間認識の一つの方法であり、おのれの内なる声を表白するものであること……」と書く。私にとっても、自分の中に明瞭であるものとそうでないものがある。言葉にできるものとそうでないものがある。

小説というのは、その明瞭でないところ言葉にできない領域を掘っていくものだと私は思う。

私が小説を選んだのは、「鏡としてのフィクション」を求めているからではないか。本当のことを、本当のまま書くことでもよいはずなのになんとなくそれはしないままでいる。できるだけ、私は「作りごと、作られたこと」を通して不明瞭を露わにしようとする。それは私が素材そのまんまを露わにするのが恥ずかしいから、というのもあるけれど、敢えてガラス一枚挟んだ方が明瞭に見えてくるという感覚も自分の中ではある。メタファーというのか、そういう些細なところから思いもよらない声が聞こえてくることがある。

小説は嘘ばかりではない。フィクションを嘘だと言い切るのは乱暴だが、そんな単純なことではなくて、作り込まれた中に本当が紛れている。そのための嘘(作りごと)というような感覚を私は持っている。

私は迂遠なものが好きだ。小説は必ずしも迂遠なものだけではないが、作者の目、それを具体化した単語・文章・文体と幾層もの厚みを通って私の目に触れる。だがその中から、何かが見えてくる。それは普段意識しないものだ。例えば命の大切さとか、青春の儚さとか、家族の病みみたいなそのまま単語にしてしまうと味気なくて恥ずかしいものだ。それが幾層にも包まれて、存在する。作りごとを通して。

作者の意識から陶冶された文章、世界観は読み手には幾分隔たったものではあるが、それが小説の性質でもあると思う。優れた小説は、その隔たりを埋める。そして、「作りごとは私ごと」になっていく。

私が小説を選んだのは、言語化すれば多分こういう理由だからだ。まず私の中に、「作られていないなにか」があった。だがその「なにか」はまだ不明瞭で言語を持たず曖昧なものだった。それを明瞭に、言葉を与えるために私は「作りごと」をする。それを通して、明瞭でないものを見ようとする。例えば子どもが死んでいくこと、失恋すること、誰かの恋人を奪うこと……そういうことに対して私は「何をどう描くのか」。そういう自分の姿勢と筆を通して、「なにか」が何であるのかを見ようとする。

そして、できればそれを読み取った人が「作りごと」を越えて「私ごと」として落とし込んでくれれば嬉しいと思う。

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