「批評と権力」 賢明なる一読者への返信

こんにちは。


批評という行為も、誤解を恐れずに言えば馬鹿にはできません。自分の中に価値基準や比較するものを持たない人間には批評という行為はできないと私は思います。それは体系だったアカデミズム的な教養や知識ではなく、なんというか人生や人間についての理解や生きる力のような、そういうものに根差す知性です。その意味で、東大を出ても批評の一つもできない「馬鹿」というのはいるものです。

批評がそういったある種の知から発するものであると私は考えます。ですが、この「知」というものもある種の強力な権力であるのです。そういう地平から見れば、知から発する批評そのものも権力以外にはあり得ない。これは結構な皮肉だと思ったのですが、どうでしょうか。



悲しいことに、私たちの世界や行為というのは非対称です。対称ということはあり得ない。必ず力関係があり、上下関係がある。学問や宗教はそれを乗り越えようとしてきましたが、上手くは運びません。だって、その主体は人間ですから。

カントが親切という行為の成り立ちを、それを施す側の優越と受ける側の屈辱で成り立っていると言ってみせたように、そういう構造がやはりどこかにあるのだと思います。

大切なことは、それらに善悪をつけることではなく、「そういうところがある」と意識することではないでしょうか。無意識の意識化、これはできるようでできません。それが、私たちにとって不愉快で不都合なものであればあるほど。

批評も一つの権力であるし、同時にそれを向けられる作品にも何がしかの「力」というのはあるでしょう。

私はそんな風に思います。



こうしたことを知らなければ、私たちはあまりにも表面的な、そして自己愛的な批評に落ちかねません。ネット上ではそれが顕著ですが。

批評は世界を解釈する一つの方法ということが、ちくま学芸文庫の「高校生のための批評入門」という本に書いてありましたけど、理想的な批評の在り方とは、多分それ自体が作品になってしまうものなのかもしれません。あれ、小林秀雄なんかも似たようなことを言っていたような。

最近、芥川賞の選評を読みましたが、山田詠美なんかは結構それ自体で独立できるくらい面白いことを書いていました。古市憲寿の作品に対する毒とか、冴えてて笑えました。酷評されてるんだけど、不思議とその作品を読みたくなりましたよ。



批評って、愛情がなければできないと思います。どんなに稚拙な作品でもそこに対する愛情と敬意は必要です。これは批評をする上での絶対条件だと言っていいくらいに私は思います。それを欠いた批評というのは、単なる悪口やお説教に堕っしてしまうでしょう。

プーシキンはエッセイだったか、評論だかの短い文章の中で極めて端的に、「批評は芸術への無償の愛」と形容しています。私も批評という行為について考える時、この愛情と敬意について真っ先に思うのです。

言うまでもなく、批評とは生身の人間同士のやり取りです。いかに批評家が客観的論理的になろうとも、そこだけはどうしても変えられません。

そういう内的な部分と、批評そのものの持つ権力や上下を伴う外的な部分があります。

これが、批評を批評たらしめていると言えばそうなのでしょう。批評を権力と呼ぶことはなにか大袈裟で格好つけのように多くの人は思うかもしれません。批評は必ずしも否定のみを含むのではありません。この点も、批評に潜む大きな誤解の一つですね。私は批評の持つ「力」や魅力は嫌いではありません、むしろ好きな部類といえます。

批評の権力とは、対象になっているものを「裁く」ことにあります。裁く側というのは、一段高いところにいるものです。これが批評をして、非対称になっている大きな所以でしょう。あなたも書かれていましたが、これは諸刃の剣です。批評の刃というのは、そのまま己にも向かうものだからです。

批評は、多くのことを問います。


文学とはなんだろうか。

言葉というものは、果たして意味のあるものなのか。


そして、最終的にはその果実である一つの作品へと向かうのです。

ですが、この問いかけは他でもなく批評家自身にもまた向けられています。優れた作品、優れた批評とはそういう円環、一種の循環を生むものかもしれません。そして、そういった構造は権力的です。相互に監視しあったもの、ジュレミー・ベンサムの提唱した「パノプティコン」に似ています。こちらからは見えないが、あちらからは見えている。

作品と批評の関係性、そして権力的な構造とはこうした文脈で辿ると理解できそうです。



ですが、多くの人にとっては批評が権力という力を帯びることは信じられないかもしれません。信じたくはないかもしれません。

力とは、あるものがあるものを裁断する(裁く)ことに端を発するところがあります。裁く側というのは、裁かれる側よりも高いところにいますから。例えば聖書では「人を裁くな」と(これは私の好きな文言の一つです)ありますが、恐らくイエスは裁くことの権力性を見抜いていたのでしょうね。

批評というのは、公的・客観的・論理的な皮を被っているためにそういう意識からは遠ざけられています。


客観は主観よりも優越する。

理性は神である。


私たちの内側にある命題に支えられて、批評という行為はあります。

そして、今や批評という行為すら専門家の専売特許ではありません。これが余計に批評とその力、作品との関係をややこしくしています。

素人に批評なんかできるわけがない、なんてことを言いたいわけではありません。

ただ、老いも若きも玄人も素人も批評の持つ権力性と人間の持つ内的部分(感情といってもいいかな)について、今少し振り返るべきではないかと……そう思うわけです。

まとめると、以下のようになるでしょう。



知というものは、一つの権力となり得る。そして、そこから発する批評も一つの権力である。

だが、これは特殊なことではなく私たちのあらゆる行為がこうした歪さ一種の非対称性を帯びているが故に、不自然なことではない。

批評というのは、前提として愛情と敬意がなければ成り立たないと私は考える。批評を批評たらしめているのは、こうした愛情と敬意であり、同時に「裁く」という行為の持つ権力性である。

優れた批評というのは、対象者と批評者両者にその問いかけを循環させるような性質がある。

こうした批評の構造……権力としての構造を、今一度考えてみることは私たちをより豊かな地平へと導くのではないか?



以上です。

長々とすみませんでした。清書してみると、どうしても長くなりますね。

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