青春というもの

村上龍の「文学的エッセイ集」より「消費される青春というエッセイを読んだ。


「青春」という響きに、村上は許しがたいものを感じるという。そこにはこの国にあるあらゆる共同体が執行猶予期間として容認する過渡期というような「大人の了解期間」というニュアンスがある。

そうした共同体に属することを拒否するためには、青春と呼ばれる時期を徹底的に消費尽くさなければならないと村上は言う。綺麗事ではなく、枯渇するまで自分を使い果たさなければならないのだ。だから、村上は青春という言葉もその言葉が意味する時期と憎む。

その時期には必ず自分とは相容れない存在が目の前に現れる。社会や他者というものが具体的な形をとって現実として姿を見せるのだ。

消費される青春とは、自分で自分の青春を消費するだけではなく、別の存在に消費される、スポイルされるという意味も含んでいる。村上はこの時期に味わった無力感というものを今でも憶えている。

だから、10代後半から20代前半にかけてのこの時期を思い出すたびに訳のわからない怒りにとらわれるのだ。



私はこの文章を読んで、自分自身の青春について別に「誰かに食い尽くされる」というような悲哀も、怒りもなかったなと思う。ふと考えたが、青春というものはそのただ中にいる人の中には存在しないということだ。後から年齢を重ねて回想する中で、青春というのは立ち昇ってくるのではないか。過去というものは大抵美化される。特に10代から20代前半の時間には、取り戻すことのできない若さがあるゆえに一層私たちにとって特別なものになる。青春というものは村上のように大袈裟な捉え方をしなければそういうものだと私は思う。

以前読者の方から、「村上龍は彼の生きて来た時代と思想、特にリベラリズムから逃れられていないように思う。それが彼のエッセイを的外れにさせているものなのではないか」というような感想をもらった。私が時折感じる村上の文章に対する独特の窮屈さと独善的なものはこういったものに起因するのかなと私も思った。彼の持つ思想云々にはあまり興味がないけれど、人がある一定の時代や思想に囚われ続けることには興味がある。

それは一種のノスタルジー、信仰に近いものだと感じる。人があるものに固執するのは、その思想や体験を通して過去の自分と繋がっていられるような気がするからだ。それが輝かしいものであればあるほど、人はそこから離れられなくなる。

私は自分の青春にそれほど思い入れはない。あまり幸せだったとも、楽しかったとも思わない。今の年齢になって、青春という時期は「そんなもの」だったんだなと思い出すことはあってもそれは淡々と他の過去を思い出すのと同じところに存在している。村上のように強烈な怒りも憎しみもない。なんだかんだいって、そういう感情を持てる人は幸せだと思う。だからある意味で、村上のある部分はまだ10代後半から20代前半の中にありそうだ。

青春とは、そのただ中にいる「若者」の中にはまだいない。もうどうあったって、若くはない、あるいは若くない自分にはもう失われたと自覚している人の中にだけキラ星のように存在しているものなのだ。

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