備忘録のすゝめ-エッセイ

学生の頃から、私はこうして文章を書くことが好きだった。一番最初の文章は、小学1年生の頃に出された夏休みの宿題、読書感想文だっただろう。それから国語のテストに挟まれる「自分の気持ちを書いてみなさい」という類の設問。

もう少し学年が上がると、小論文や特定のテーマについてのレポート……逆に学生時代最後の文章というのは卒業論文ということになるだろうか。

私は不思議なことに、今もそうだが文章を書くことにそれが義務にせよ、趣味であったものにせよあまり苦痛に感じたことがない。

小説の場合は違うけれども、「思ったことを書けばいい」エッセイなら、なおのこと楽に感じる。

書くことの難しさ、というのは単に語彙の不足や表現力の拙さのみにあるのではない。頭の中で思うことと、実際に形と意味を持つ日本語に成長させるには、「微妙な翻訳」がいる。それは頭の中で思ったことを、発話して伝達するあの間と同じようなものだ。

これは案外難しい。かっちりとしたビジネスメールでさえ、その定式に慣れてしまえば簡単なものの、慣れるまでは定式と自分の伝えたいことがこんがらがって無駄に長いものに成り果ててしまう。

それは単なる文章力の低さのみに瑕疵があるのではなくて、頭の中で思うことと文章の中に現れる言葉との間に微妙で微細な溝があるからなのだ。

日本語はよく、書き言葉と話し言葉が違うと言われる。この辺にも理由があるだろう。自国語の中でも、一度書き言葉に翻訳しなければ、日本語は「紙の上の文章」とはならないのだ。



さて、私はこうして好き勝手にエッセイを書くことが好きだ。私にとってエッセイとは備忘録のようなものだ。特に読んだ本をもう一度読み返して心に残った箇所や覚えておきたい箇所を書き留めて、考えることは楽しい。また日が経ってから自分の書いたものを読み返したりすると、「へぇこんなこと考えていたのか」と思ったりする。

自分で書いたはずのものなのに、すっかり忘れていたりしたものもあって人間の記憶というものはいい加減なものなのだなぁと思ったりもする。

一番私が「エッセイを書きたい」と思う瞬間は本を読んでいる時だ。本を読んでいる時は色々なことが花火のように立ち昇る。そういうものを、意味のある形を持ったものとして「ひとまとめ」にするのにエッセイはとてもいい。単に「よかった」と思うのでなくて、「なにがどうよかったのか?」「なぜそう思うのか?」というように具体的に、なにより自分の言葉である程度の量を持って掘っていくことはとても大切なことだ。



意味とまとまりのある文章を書くことは難しい。初めのとっかかりは、他愛もない「私の感情」でいい。そして好きなもの、興味のあるものについて書くこと。

そうすることの楽しさは、そうして文章の端に乗せたものを通して、自分自身が浮かび上がってくることだ。思考や感情は、案外文章にしなければ意識されない。

目に見えないものは、私たちにとって黙殺される。それを可視化すること。意識化すること。

私にとって、エッセイは思考のツルハシのようなものだ。まだ硬い岩の中に眠っている諸々の思考や感情を探り当てるもの。

日々を忙しなく過ごしていると、そういったものはつい後回しになる。「私」という顔は、次第に社会の中で……苦労と疲労の中で希釈されていく。そうして痩せ細った人間の発する言葉や話題は、カネやモノや異性、くだらない噂話だけになってしまう。

それではあんまりだ。

例えば、西の果てポルトガル領の小さな島の本屋の1番上にはポルトガル語訳された「源氏物語」が乗っている。失恋に追い詰められた人は、何を思ったのか引き出しの中の箸という箸を取り出して畳に突き刺している間に眠ってしまったこと、起きてから自分の仕業にぞっとしたこと……。

これは実際過去に読んだ本の中に書いてあったことを、薄ぼんやりと思い出して思いつくまま書いてみたものだ。それでも、世界の厚み、他者の存在を感じることができる。そしてそれを、こんな風に書いてみること。

いるはずのなかった人や、起こるはずのなかったものにこうしてまた光が当たる。

誰かの目に触れることによって。



これはとても大切なことだと思う。

そして、とても愛おしいものだと思う。別に、たくさんの人に読まれなくてもいい。

今日行った図書館で借りた本が何冊かある。それは哲学の欄、1番下の棚にあった。ページには灰色の埃が薄っすらと積もって、長いこと誰の手にも取られなかったことがよく分かった。そういう本が図書館には無数にあった。それでも、なんとなくその本たちの表紙はまた再び誰かがこうして手に取ること、ふうっと息を吹きかけて埃を飛ばしてくれることを待っているような、知っているような趣がした。

私が書くものも、そんなものでいい。むしろそんなものでありたい。往来を行く人々すべてに、気に入られようと存在を見せびらかそうと、媚を売って汲々とする娘のようでなくていい。

ちょびっと路傍に腰掛ける野良猫のような存在で、「変だなぁ」と思った同じように変わった人が何年かに1人か2人手を取って立たせてくれればそれでいい。

なんというか、そういうエッセイが私にはあっている……。

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