「高校生のための批評入門」ちくま学芸文庫

私にはお気に入りの出版社がある。岩波文庫、ちくま新書、平凡社ライブラリー。中でも一番好きなのはちくま学芸文庫だ。

ここから出ている本はなかなか濃くて面白い。以前から気になっていた「高校生のための批評入門」を買って読んだ。本書には様々な分野で活躍した第一人者たちの色々な文章が載っている。小説、エッセイ、評論、紀行文など読んでいてハッと気づかされるような切り口で人が社会が切り取られている。その数は51にものぼる。



私が個人的に惹かれた文章は、岸恵子の書いた「ああ西洋、人情うすき紙風船」である。

筆者の岸がフランスのパリで日本行きを控えた時の夕食のひと時のことだ。ちょうど「リル・フロッタント(浮き島)」というデザートを運んでいた時に、イルカの追い込み漁の様子がテレビに映った。岸の娘はそれを「ひどい」と叫び、また別の友人は「野蛮人たと叫ぶ。その声に、岸は「私を憚るような、非難するような、険悪なニュアンスがあった」ために、棒立ちになる。そこに「日本人っていうのは……」とさらに追い打ちがかけられるのだが、岸の様子に気後れしたのかそれ以上の言葉は呑み込まれた。

岸はこの一連の出来事について、「二言三言の説明だけで、いきなりイルカ大量殺戮を『見よ日本人の残虐蛮行を!』というような調子で世界中のTVニュースに一つのスペクタクルとして流されたんではたまらない」と振り返る。「正直なところ深い、ふかーい溜息をつかざるを得ない」と岸は嘆く。その後で鮮やかな一文が挟まれるのだ。


「ああ、西洋、人情紙風船、なのである」


世界はくまなくつなぎ合わされている。それを洗練された知的な言葉でもって表現すれば「国際化・グローバル化」なんてものになるだろうか。

私はなんて胡散臭い、と感じてしまう。世界は末広がりに広がっていく。だが、「断然」というのはすぐそこにあるものだ。日常生活の中で、岸が経験したような突如として現れるものだ。

人情紙風船……なぜこうした断然が広大に繋がりあった世界の中で起こりうるかというと、やはり人は自ら生きる置かれている文化や規範、価値の中で他の文化や規範、価値を裁断するからだ。当然、自らの文化や規範、価値のないものは「野蛮」なものであり、そこで生きる人々は「野蛮人」となる。

まさにそれは紙風船のように虚ろで、儚いものでもある。私たちがあるものをそしる側から、また別の誰かたちが同じように指を指すだろう。

口で国際化だのグローバル化だのを言うことは簡単だ。確か、アーレントだったと思うけれど、彼女はなぜ今世紀私たちが直面している危機が深刻なのかという点について、それはまさしく「世界がくまなくつなぎ合わされる時代の中に生きているから」というようなことを書いていた。

湖面に投げた小石でも、その波紋が足元に届くように、地球の裏側で起こった出来事が回り回って私たちの足元にまで届く時代に私たちは生きている。そうした時代の中で、「野蛮」さを抱えた私たちはどのように生きていけるのだろうか。

私たちの持つ固有の経験や文化は絶対的なものではない。相対的なものであろう。

だが、私たちはどこかで執着している。その執着が私たちをして「野蛮人」と叫ばせる。そういう時代の中に私たちは存在している。

世界は大きくなっている。そればかりか全てがつながり合い、さながらそれだけで一個の巨大な生物のようだ。

だが、私たちはあるものを捨てきれない。

そのことを岸の文章は突きつけるのだ。



話は変わるが、私は今まであまり批判や批評に興味がなかった。自分が受けたり、逆に自分が何かを批判・批評することに興味はなかった。だけれども、ここにきてなんだろうと興味が出てきた。

批判・批評とは、なんだろうか。本書には、「批評とは世界との出会いに心を開くこと」とある。それはどのような出会いだろうか。私は「他者」との出会いであろうと思う。

思いもよらない他者、理解できない他者、違和感を持つ他者……そのような他者との出会いの入口かもしれない。岸恵子の文章は、これまで確かにあったであろう「他者(世界)」との出会いであった。そう、批評は一つの出会いだったのだ。



「がむしゃらな自己主張ではなく、世界との出会いに心を開くことが批評の始まりである。


批評に目覚めるということは、世界の中で一個として在る自己に直面させられるということであり、あるいは世界に向ける眼を受けもたされてしまうということである」



上に引いたのは本書に出てくる文章の一部だ。他者に違和感を持つこと、理解の及ばなさを持つことは、同時に孤独に陥ることでもある。

「批評は孤独になること」という文章もズバリ出てきたが、誰もが頷くものや当たり前すぎて通り過ぎてしまうものをじっと見つめることが批評の本質であるなら、やはりそれは孤独な、独りきりの作業であろう。

だが、どうして孤独になるのだろう。それは多分疑う行為でもあるからだ。疑うものとは、社会の中に規範であったり、常識である。もっと自由な思考の中で私たちは考えることができるはずだ。

あるがままの事実から、あるべきという規範を持ち出す思考から、集団から、そして自分自身から。それこそが恐らく批評であるかもしれない。



「自由で豊かな発想を生むために最も強調されねばならないことは、今以上に自分を飾り立てるような衣装を増やすことではない。頼みもしないのに、周りから寄ってたかって着せられた常識という重い着物を脱ぎ捨ててゆくことなのだ。そして、借りものではない自分を、人や物に向かって伸びやかに解き放つことなのだ。


自己という不透明な器を与えられているのが人に均しく課せられた条件である。誰もがそれを見定める方法を知らず知らず探し、求めている。誰も逃れることはできない。「私」こそ批評の出発であると同時に、究極の課題なのだ」



他者と向き合うことは、他者の顔を通して自分自身とも向き合うことでもある。

批評というのは、その手段の一つであるのだ。

あぁ、面白い。

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