「だっさい」こと

私が一番「だっさいな」と思うことは、他人にはやたらと手厳しく批判をするくせに、同じような鋭さを自分に向けることができない人。そして同じような鋭さを向けられると、途端に自己擁護に走る様である。でもこういう態度や姿勢はまだ「かわいい」。一番「だっさい」のは、そういう行為を本人は「冷静で一貫した、論理的な」ものであると疑いもなく思い込んでいることだ。


一時期、インターネットやSNSを介して伝わってくる無数の人間の自己顕示欲や承認欲求の強烈さに辟易していた。いっそのことスッパリ辞めて、紙に書きつけるだけにしようかなぁとまで思ってみた。

人は本来、「認めたられがり」な生き物であると思う。これはもうある種の社会的本能なのではないかと思う。そこに現代ではインターネットという化合物が加わり、なかなか強烈な化学反応を起こしていると感じる。

「どうしてそこまで他人のことが気になるのか」、「なぜそんなにまで認めてもらいたいのか」が私にはよく分からない。自己顕示欲や承認欲求は病的なものでもなんでもないのだが、インターネットというフィルターがそれを病的なものに見せている。あるいは、病的なものに「していっている」のかもしれない。


特に小説を書くような人間の自己顕示欲や承認欲求は強烈だと思うことがたびたびある。

私は率直に言って、自分の中にある自己顕示欲や承認欲求を満たすための道具や手段として、文章を書くことを使いたくはない。そもそも自分にそこまでの才能があるとも思えないし、人の自己顕示欲と承認欲求は限りがない。「満たされる」ということは、多分ない。生きていればその分だけ望むことは(特に他人に対して)はそれだけ増えていくだろうと思う。例えば、数字や物や、分かりやすく金銭的な価値に換算できるものであるならまだ分かりやすい。だが、抽象的な文章に欲求の解消を託すのは精神的にはリスキーなものだと思う。

所詮素人の文章なんて、そう読まれはしない(残酷ね)。私は純粋に文章を楽しむことだけに賭けたい。自己顕示欲や承認欲求という不純物は混ぜ込みたくない。だから小説投稿サイトは保管庫で、Twitterは備忘録としてしか使わない。誰が何を書いているかとか、今何がウケているのかとか、そういうものはどうでもいい。誰だって、好きにやればいい。


なんて思っていたけれど、インターネット上に公開すると自分で考えているようなこうした価値観や考えなんて他人の目の前では全く意味をなさない。「あなたが嫌い」とまでわざわざコメントに残された時は笑ってしまった。同じように嫌うならせめて文章や作品を嫌えばいいのに…どうしてそこで作者に飛ぶのかちょっとよく分からなかった。文章から私の人格を辿るところは面白かったけれどね。


インターネット上にある無数の言動を見て思うのは、「ある人にとっては音楽に聞こえても、別のある人にとっては騒音でしかない」という人によって見たものから導き出される価値観は異なる、という事実だ。これは結構残酷なことではあるけれど、こうした解釈の多様性が人間同士の面白さであったり、鬱陶しさであると感じる。インターネットは、公的な空間(学校や会社、リアルでの人間関係なんかも当たるかな)では抑圧されている、している「私的な自分」が露わになりやすい。


ここで冒頭に戻るのだけれど、「だっさいな」と思う人はやたらと他人に手厳しい。そういう人は、多分やり玉に挙げている本人の前だと何も言えないんじゃないかと感じる。

別に小説に対するあれこれに関わらず、何かにつけて文句ばかり垂れる人や言動には、小粒な消費者根性から抜け出せない小ささを感じる。そして、自分の中の常識を一般化してはばからない傲慢さと滑稽さが見えてくる。「私の常識は、あなたの非常識」というようなものが抜けている。そういうものが、見ていて一番「だっさい」。


あんまり他人のことをあれこれ言うのも美しくないだろう。

私も十分「だっさい」のだから…笑

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