偏愛断簡集

三津凛

「科学的精神の形成 対象認識の精神分析のために」ガストン・バシュラール

なぜ私たちは誤謬を犯すのか…。それは科学の領域においても同じである。その誤謬について迫った古典的名著を偶然にも図書館で見つけたので、感想を書いてみる。

誤謬に至る最初のつまずきは、「認識」それ自体にあるのだ。バシュラールは冒頭で以下のように書く。



「科学の進歩について心理学的条件を探してみるならば、科学的認識の問題は障害という言葉で提起しなければならない、という確信にほどなく達するであろう。しかもそれは、現象の複雑さや現象の持続の習慣性というような外側の障害を考察したり、人間の精神や語感の欠点を暴き出すということなのではない。科学の進歩が停滞し混乱するのは、認識の行為そのものに深く結びついた形で、いわば機能的に不可避なこととして発生するのだ」



バシュラールはこれを「認識論的障害」と名付けた。

そして、客観的な科学的精神が出会う最初の障害は、「最初の経験」である。批判以前のこうした経験は、私たちを固着させ誤った認識へと導くものである。



「科学的精神の形成に際し、第1番目に出会う障害といえば、それは最初の経験である。批判以前に、しかも批判の及ばないところに位置している経験である」



では、科学的精神とはどのようなものなのだろうか。バシュラールはそれを自然に逆らって形成されなければならない、と説いている。自らを作り変えることによって、科学的精神は形成されなければならない。



「…科学的精神は自然に逆らって形成されなければならない、ということである。科学的精神は我々の内面と外界にある自然の衝動や自然の教えに逆らい、自然の牽引する力に逆らい、色のついた多様な事実に逆らって形成されるべきである。つまり科学的精神は自らを作り変えることによって形成されなければならないのである」



だが、こうした形成に至るまでには様々な障害がある。そもそもの「認識」に関する誤謬から、最初の経験への固着、そして過度な一般化というのも障害である。



「一般的という虚偽の理説ほど、科学的認識の進歩を遅らせたものはない」


「すべては識別されている。しかし我々の考えではこの識別の過程が短ければ短いほど、実験的思考は貧困なのである。ここにおいて科学の教育法は、諸定義の字面だけで辻褄を合わせて満足しているような思考が無力であることを証明しなければならない」


「あまりに一般的な認識の周辺では、未知のゾーンがあっても、的確な問題に変わっていかないのである。要するに正確な観念の連環をひとつ追うことによっても、人は一般性が思考を停止させることを納得することができる、つまり、一般的観点を語る変数は、本質的な数学的変数に陰りを落とすのである」



私たちにとって、「たった一語で表された、一般化されたイマージュ」ほど心地よく理解しやすいものもない。だが、こうした過度な一般化は科学的精神とは真逆のものである。科学的精神とは、精確な限定条件が与えられている認識である。



「限定という理念が何より優先する。精密さを欠く認識、あるいはもっと上手にいえば、精確な限定条件が与えられていない認識は、科学的認識ではないのである。一般的 (普遍的・通念的)認識とはほとんど宿命的に曖昧な認識なのである」



だがバシュラールは、先述した「「たった一語で表された、一般化されたイマージュ」の抗いがたい魅力についても触れる。



「…ひとが比喩を表現だけの世界に閉じ込めておくことは、思ったほど容易ではないということである。ひとが望むと望まざるとに関わらず、比喩は理性を惑わせるものなのだ。結びつきの薄い個別的なイマージュが知らず知らずのうちに一般的な図式となってくるを対象 (客観的)認識の精神分析は従ってこういう素朴なイマージュを消去すべきだ、とわ言わないまでも、光彩を喪失させてしまうようにやるべきであろう。最初に抱く直感は科学的思考の障害であり、概念を超えて働くような具体的例示のみが本質的特徴にいささかの彩りを与えるということによって、科学的思考を助けることができるのである」



こうした思考を、バシュラールは前科学的精神と呼んでいるが、過度な一般化と、一つのイマージュほどその特徴はない。



「前科学的精神にとって、一元性という特性は常に望まれた原理であり、いつでも大安売りされていた原理である。たった一つの大文字をつけるだけなのだ」


「たった一つの概念を極度に一般化したいという欲求が、時には綜合的な思想にまで到達することがあるが、その誘惑の力はいぜんとしてほとんど衰えていない」



また前科学的精神は実体論とも結びついている。



「…すぐ理解されることは、前科学的な精神にとって、実体は内部を持つということであり、もっと正確には実体とは内部であるということなのである」



こうした障害に彩られた言説と精神が氾濫した結果、私たちは誤謬に陥り、科学的精神からは遠ざかっていくのである。

では、科学的精神とはどのようにすれば得られるのか、そしてどのような教育こそが科学的精神の形成を促すのであろうか。バシュラールの言説は明確である。



「客観的科学が十分に教育的になるためには、その教育は社会的に能動的であるべきだ」


「我々の立場からいえば、客観的態度をつくる教育法の基本原理はこうである。まず教えを受けるものは教えを与えるべきである。与えることなく受け取ってばかりいる教育は、ダイナミックな精神や自己を批判する精神を形成しない。とりわけ科学の諸教科においては、こういう教育は発明に向かって進むための衝動となるべき知識を固定化し、ドグマチスムに陥れる」


「また理性を不安にすること、対象認識の習慣を錯乱させる必要がある。まずそれが常時教育的な実践となるべきである」



このように指摘した上で、科学者自身に対しては、以下のように説く。



「現代科学が置かれている発展の時点では、科学者は自らの知性の放棄という必然性、たえず発生している必然性に直面させららている。誰の目にも明らかなこの放棄、直感の剥奪、愛好するイマージュの放棄、ということがなくては、遠からず客観的探求はその生産力を失うのみならず、発見のベクトルそのもの、帰納的な飛躍までも失うことになるであろう。客観性にいたる瞬間を繰り返し体験すること、たえず客観化の発生する状態に身を置くこと、そのためには、非主観化へのふだんの努力が必要である」



続けてバシュラールは喝破する。



「人生の興味は、精神の興味に取って代わられるということがわかる」


「学校にいる時期だけに教養が限定されるのであれば、科学的教養は否定されてしまうだろう。生涯教育によってのみ科学は存在する。科学はこういう教育を樹立しなければならない。学校は社会のために作られるのではなく、社会が学校のために作られるのであるから」



序盤の科学的精神の形成については、膨大な科学文献を取り上げながら誤謬に陥っていく様をバシュラールは描いていく。終盤になると、さながら教育論の様相も呈しているが、全く古びていない言説に驚く。私もアカデミズムの中にあるもののみを、教養と言ってしまえば科学のみならずあらゆる学問は死んでしまうだろうと思う。

そして、科学的精神とバシュラールが名付けているものは、必ずしも「科学的」な領域に留まるものではない思考であると私は感じた。前科学的精神の不気味な氾濫の中で私たちは生きていると、日々感じる。

歪んだ認識と、最初の経験 (言い換えれば主観的な感覚的な経験や意識)への固着、理解しやすい過度な一般化への傾倒……社会や政治の世界では、これらが結果として排斥運動やヘイトクライム、エスタブリッシュメントへの不信とフェイクニュースに代表される自らの「最初の経験」を強化するようなコンテンツの隆盛に繋がっている。これらも、形を変えた私たちを誤謬に陥らせるものかもしれない。

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