明日はやってくる

三津凛

第1話

せめてあなたにおっぱいが付いてて、脚の間に何にもなかったら、考えられるんだけど。


さりげなく距離を置かれながら、わたしはにべもなく断られた。

「なんか、逆に悪かったね。こんなこと言っちゃって」

戯けてみせる。いくらか張り詰めた空気感が溶けて、美鈴も笑った。

隣の美鈴は近いようで遠い。こちらを向いているようで、反対側を向いている。


せめてあなたにおっぱいが付いてて、脚の間に何にもなかったら、考えられるんだけど。


あぁ、振られちゃったなぁとわたしは頭を掻く。

もうちょっと聡かったなら、美鈴が同性愛者だったことに気がつけたのだろうか。美鈴にとって男性は、多分ポストか電柱みたいな存在でしかない。そういうものに好意を寄せられて、こうして捌くのもなかなか辛いものがあるかもしれない。

わたしと美鈴はそれから何も話さなかった。何度か食事に誘われて、二人で飲みに行ったりした。プライベートな話もお互いし合った。会社ではちょっと険のある女性だったのに、二人でいるときはよく笑ってよく話す人だった。

こういう女性にわたしは弱い。呆気なく好きになった。気が強くて一筋縄ではいかないような人は嫌いではない。その鎧が解けて、笑う様は水面に映った真っ白な月が揺らぐのを眺めるように不思議と心が落ち着く。

わたしは単純な男だった。わたしにそんな顔を向ける美鈴は好意を持っているのかもしれないと思った。

勘違いに骨まで浸っていた自分が居心地悪い。

「でも、ちゃんと私のこと話せてよかった。大切なお友達だと思ってるから」

美鈴は小さく呟いた。わたしは嬉しいような、哀しいような相反するものがとぐろを巻いて交わるのを感じた。

「じゃあ、また明日。会社で」

美鈴は事務的な声を出した。

わたしも調子を合わせて応える。

「えぇ、また明日。おやすみなさい」

また明日、か。ちゃんと前と同じような明日は来るのだろうか。


告白なんてしなきゃよかったと思っても、どうしようもない。

冷たいベッドに潜り込むと、いくらか酔いが引いていく。

昔から、僕や俺といった男を思わせる一人称が苦手だった。消去法でわたし、という一人称を使っていた頃はよくからかわれた。さすがに社会人になると馬鹿にされることもなかったが、自分はちゃんと女性が好きなんだろうかと疑問に思うこともあった。自分から好きになったのは美鈴が初めてだったのではないかと思う。

それは見事に砕け散ってしまったわけだけれど、仕方がない。

ちゃんといつも通りの明日が来る保障はない。無視されても、文句は言うまい、嫌いにはなるまい、とわたしは決める。

そう思うと、わたしに残されているものは何もないように感じた。今はただこれ以上は何も考えず寝ってやろうと思って、硬く目を閉じた。


いつより大分早く目が覚めた。スマホにセットしたアラームが鳴るのはまだまだ先だった。本当に昨日自分は同性愛者の女性に告白をしてしまったんだろうかと、疑いたくなる。

洗面所に立つと、わたしは言いようのない奇妙さを感じた。

女が立っている。鼻先を擦り付ける勢いで鏡を覗き込む。

「なにこれ」

喉仏がない。思わず指で喉を触ると、それはどこまでも平坦だった。声も幾分高くなって、耳に響く。

「いやだ、ちょっと…」

真っ平らなはずの胸は膨らんで、ふらふら遊んでいるはずの脚の間には何もない。

ううーん、とわたしは唸った。紛れもなく、わたしは女になっている。試しに下着の中に指を突っ込んで確かめてみる。

あるはずのない裂け目がちゃんとある。

へこんでいた所が膨らんで、突き出た所がのっぺらぼうになって、塞がっていた所に裂け目ができている。

「いつの間に性転換したの」

わたしは鏡の中のわたしに問いかける。昨日は帰って来て、そのまま部屋で寝ただけだ。

どことなく、顔に面影は残っているもののそんな片鱗は多分他人には分からないだろうと思った。

こんなんじゃ会社にも行けない、どこにも行けないじゃない。まとまらない想念が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。頭の中が全部炭酸水でできたように、何もまとまることがなく、形にならなかった。

気がつくと、スマホのアラームが鳴っていた。


わたしは悩んだ挙句、その日会社を休んだ。必死に低い声を出して、その後咳が止まらなくなった。

「あーあ、馬っ鹿みたい」

ベッドに横になりながら、なんとなく自分の胸を揉んでみる。興奮も何もない。これからどうしよう。病院にでも行けばなんとかなるのだろうか。

「いっそのこと、女として生きていこうかしら」

この姿態なら、むしろ女としてしか生きていけないだろう。わたしは、皮肉なことに消去法で言い続けてきた一人称がぴったり当てはまるようになっていることに気がつく。

思考がふわつく。

いいんじゃない?中身は男のだけど、身体は完璧に女だし…このままなら、もしかすると美鈴と付き合えるかもしれないわ。

「馬鹿じゃない」

ウィンウィンかもしれないわ。

思考の女体化も始まるのだろうか。直感的で、感情の波に頭が乗せられる。それは今までになかったもので、不思議なほど愉快だった。

このまま身体が元に戻らなかったらどうしようと思わないこともなかった。

でもあれこれ考える前に、わたしはちょっとやってみたいことがあった。女になったわたしを、美鈴はどんな目で見るのだろうか。

女だったら、だれでもいいわけではないだろうけど、ポストや電柱よりかは一つ抜け出せるような気もした。

ふとスマホを見ると、美鈴から「大丈夫ですか?」とメールが来ていた。

気が強そうに見えて、細やかな所が好きなのよねとわたしは目を細める。


「大丈夫です。ちょっと話したいことがあるので、駅で待ち合わせしてもらえませんか?」


わたしは半分無視されることを予感して、そのまま寝た。

昼過ぎに起きると、意外なことにちゃんと返信が来ていた。「わかりました。着いたら連絡します」

眠気も吹っ飛んで、わたしは跳ね起きた。

何をやろうとしてるのかしら、と口の中で呟く。身体が変わってしまったのに悲壮感が全くないのが自分でも不思議だった。

それからわたしは適当に服を着て、ちゃんと女の子が買いに行く服屋で服を揃え、下着も買った。

「意外とお金かかるのね」

ぶらぶらと時間の曖昧になった身体を引きずりながら、わたしは歩いた。性別が逆になったわたしを抱えても、世の中は変わらない。わたしは本当に昨日まで男だったのか、ふとした瞬間に怪しくなってくる。

買い込んだ服を、目に付いた百貨店のトイレの中で着替えてそのまま遅めの昼食を食べた。それから書店で時間を潰して、何冊か面白くなさそうな文庫本をわざと買った。

まだ仕事が引けるには時間がありそうだった。

変わってしまった身体を引きずって、変わらない百貨店や書店や駅や電車をめぐる。そして、待ち合わせをしていた駅の広場のベンチに腰掛ける。

「そういえばわたし、お化粧してないわ」

でもやり方なんて、知らないもの。まぁいいわ、事故るだけだわ。

自分でもおかしいことは分かる。でもわたしはこのヘンテコな世界をどこかで楽しんでいた。

聞いたこともない、ヘボ作家のつまらなそうな文庫本を開く。擬音だらけの文章とスカスカの行間が、おかしさを増幅させていく。

失恋のショックで女になっちゃったのかしら。それなら、まだ辻褄が合いそうだけれど。

わたしは脚を無意識に組もうとして、やめた。風にスカートの裾が翻る。


見慣れた横顔が、隣に座る。わたしは笑いたくなるのを堪えて、文庫本で手元を隠しながらスマホの画面を眺めた。


「着きました。ごめんなさい、待ちましたか?今広場のベンチに座ってます」


美鈴から、メールが届く。

わたしはそっと隣を窺う。美鈴はなんとなく、思いつめたような顔をしていた。わたしが女になっちゃったって告げたら、どんな顔になっちゃうのかしら。


「わたしも今着きました」

「どこにいますか?」


わたしは、しばらく考えた。美鈴は立ち上がって、わたしを探すような素振りを見せている。

「あなたの隣にいます。ベンチ」

メールを送ると、美鈴は少し顔を落として画面に見入った後でまっすぐわたしを見た。

そんなに見つめられると、今までのおちゃらけた気分が一気に霧散して、どんな顔をすればいいのか分からない。

「美鈴。女になっちゃったの…」

しばらく美鈴はわたしを見つめていた。そして、ゆっくりわたしの隣に腰を下ろした。

わたしも黙って、バスに乗り込む人や、駅に駆け込んでくる人の群れを誤魔化すように眺めた。

「…その本、面白い?」

美鈴が不意に口をきく。

「全然」

「変なの、じゃあどうして買ったの?」

美鈴はちょっと硬く笑った。

「…買うときは分からなかったもの」

「……本当に女になっちゃったの?」

急に突きつけられて、わたしは遅れて頷く。

「うん…朝起きたらこんなことになってたの」

「本当はあの後タイに飛んで手術してきたんじゃない?」

「まさか、ひどいこと言うのね」

ふふっと美鈴が笑う。

「でもね…」

「うん」

「下心があるのは事実」

美鈴はわたしを眺める。それは昨日告白した時に向けられたのと同じ色をしている。

「今はちゃんと女だから、わたしのこと少しは見てくれるかなぁって」

美鈴はそこで笑った。

「変な人。もっと混乱とかしないの?私、自分が朝起きて男になってたら多分耐えられないわ」

「まぁ、そうだろうけど…」

性別はわたしたちを縛る最小単位の一つなのだろうけど、結局は感情がそんなもの飛び越えて先に行ってしまう。

「…あなたのことは嫌いじゃないけど…」

「うん。なんとなく、一人でいるのが心細かったから声が聞きたかっただけ」

「さっきは下心があるって言ってたくせに」

「心はメンズだから」

「パッチワークみたいな人になっちゃったのね」

美鈴は立ち上がって、私の顔を覗き込む。その瞳は変わらない。

性別が変わったところで、相手の恋愛対象の中に入り込んでみても、結局は何も変わらない。今日一日何もなく流れていった世の中のように、美鈴も変わらない。

「もし、これからずっと女の子のままだったら、どうしよう」

ふと、本音が漏れた。

「そのときはまた一緒にいてあげる」

美鈴が変わらない瞳で笑った。


その後、わたしは美鈴とご飯を食べてお酒も飲んで帰った。

結局、わたしはポストや電柱から脱することはできなかった。

「ちょっとくらい、そういう目で見てくれてもいいのに」

「私だって相手選ぶ権利くらいあるから」

美鈴はわざと事務的な声を出して言った。出来損ないの豆を弾くように、私の性も弾かれる。女になったのに、弾かれる。

結局、人は相手の何を見て好きになるのか分からなくなった。

冷たいベッドに潜り込むと、酔いが引いていく。

別れ際の言葉を思い出す。

「じゃあ、また明日。会社で」

あれは多分一つの線引きだった。同僚からは抜け出せない。抜け出すことを、許さない合図だったのだ。

ちゃんと明日はやって来るのだろうか。わたしはそう思いながら、硬く目を閉じた。


翌日、珍しく寝坊した。

そして気がついた。鏡の中に男が立っている。喉仏がある。胸がない。脚の間でふらふら遊ぶものがある。

あれは幻だったのだろうか。

ふとテーブルを眺めると、文庫本が何冊か乗っている。女物の服が脱ぎ捨てられている。

わたしはちゃんと女になっていた。理由も辻褄もなく、性転換をした。そしてまた、元いた場所に戻っていた。

ゆっくり考える暇もなく、わたしはスーツを引っ張りだして慌ただしく着込んだ。

それはぴったりと収まる。

変わらない、変わらない。


ちゃんと明日はやって来た。

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明日はやってくる 三津凛 @mitsurin12

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