あったかもしれない前日談5話
明け方、目覚まし時計が鳴り出すよりも随分早くに目が覚めた。玄関が開く、すこしだけ配慮の足りない乱暴な音が聞こえたからだった。
お母さんが帰ってきたのだ。
どうせ酔っているのだろう、と普段は友香さんが行っている介抱を私がすべく、緩慢な動きで布団から這い出た。襖を開け、壁に手をつきながらしょぼつく目をこすりながら玄関に向かった。
「薫ちゃん……」
かすれた声を出すお母さんはいつもとようすが違っていた。息を弾ませ、整えた髪を振り乱して涙を流し、行くときに履いていたヒールの高い靴はどこかで脱げたのか、裸足だった。
そしてなにより大きな変化は、頭から血を流していることだった。顔から喉、肩にかけてほとんどが血に濡れていて、紫色だったドレスには黒く大きなシミが出来ていた。
どうしたの、それ、と訊く間もなくお母さんが私に体当りするような勢いで抱きついてきて、私はその衝撃に耐え切れず尻餅をついた。
「お客さん、怒らせちゃった」
努めて明るい声を出そうとしていたお母さんの肩は震えており、抱きしめてやるとその体温が伝わってきた。
冷たかった。
夜になるとまだまだ冷え込むような時期はもう過ぎ、寝るときは窓を開けるべきかどうかというような熱帯夜が定期的に訪れるような季節なのに、息を弾ませハイヒールが脱げるくらい走ってきただろうはずなのに、お母さんの身体は冷たかった。
「いつまで経ってもダメね。怖い。すごく怖いの」
泣いているお母さんを見るのは初めてな気がして、なんとかしなくてはならないという焦燥感ばかりを感じ、しかし私は涙を流す人の慰めかたさえ知らなかった。
こういうのは友香さんの役回りだな、と思いつつ、せめてお母さんが綺麗でいられるように、顔や喉についた血が固まってしまう前に拭い取ろうとそこに手を這わせた。
血はすでに表面が固まっていたけれど、刺激すると崩れ落ち、中からまだ固まりきっていない半液状の血が流れ出してきた。
寝巻きの裾を最大限伸ばしてそれを拭き取る。白い肌が見えてきたけれど、細かいシワにまで入り込んでいるようで、表面をこするようなやりかたではダメなようだった。なにか水で濡らすなどして入り込んだ血を浮かせてやらねばならないらしい。
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