あったかもしれない前日談3話

 私には父親がいなかった。家にいるのは女が三人。私。私の産みの親である母、香織。そして、父親役の女性、友香さん。

 お母さんは日中に昼寝と家事をこなし、夜になると派手な衣装を着てキャバクラに行っておっさん達にお酌し、明け方に帰ってくるような生活をしていた。

 年も年だし、あまり無理をしないほうがいいのでは、と言っても、まだ指名をもらえるうちは働かないと、薫に不自由な思いはさせたくないの、と今夜も出かけて行った。

 友香さんに関しては、なぜうちにいるのかわかっていない。本人の口から明言されていないだけで、なんとなく予想はつくけれど。

 彼女は朝からスーツを着て働きに出ていて、お母さんが仕事に出たころになるとすれ違うように家に帰ってくる。私たちは彼女の稼ぎでご飯を食べて、足りない分をお母さんが補っていた。

 お夕飯を作るのは私の仕事だったけれど、お母さんは別で軽食をとり、私はおもに友香さんと夕食をともにしていた。

 けれど、朝食は三人揃うことが多かった。お母さんは酔いの残った体を揺らしながら目を閉じてパンをかじり、友香さんは新聞を読みながらコーヒーをすする。友香さんは連日日本を騒がせていた事件のニュースが始まるとすぐに番組を変え、為替と株の値動きを確認してから席を立つ。

 どこの家庭にも見られる光景だった。

 会話は多いほうではないけれど、ふたりの関係が悪いわけでもない。ときどき、互いに慈しみ合っているような視線を交わす。そこに含まれている情の深さには、娘である私でさえおいてけぼりにされるほどだ。

 むかし、ふたりが揃って家にいたことがあった。その日、私は休日で、すこしだけ朝寝坊した。私が寝ている部屋から襖一枚はさんだ向こう側の居間にいるふたりの話し声が聞こえた。

 子供だった私は大人が何を話しているのか気になり、盗み聞きをした。けれど、聴こえてくるのは楽しげな声だけで、神妙に会議しているようではなかった。

 何をしているのだろう、とふすまをわずかに開け、ふたりの様子をうかがった。

 ふたりは額を突き合わせるように座って、互いに見つめ合っては笑い、キスをした。

 友香さんはお母さんの胸に手を置き、そのままのしかかりそうな体勢になった。

 そのとき、彼女がふすまのほうに視線を送り、私と目があった。友香さんは慌てたようすも、なんの未練もなさそうにお母さんから離れ、さきほどお母さんに向けていたものとは違う微笑みを私に向けた。お母さんはさほど乱れていない衣服を整え、おはよう、と私を居間に迎えた。

 私はふたりの邪魔をしてしまったのではないかと後ろめたい気持ちになったものの、ふたりが何をしていたかもわからず、ただそこにあった艶っぽい空気にあてられて赤くなっていた。

 私とは対照的に、ふたりはさきほどの艶めかしさを微塵も感じさせない立ち振る舞いで、私がひとり恥ずかしい思いをしているような気になってずるいと思った。

 朝食を食べ終えた友香さんは出社の準備をして靴を履く。食べるのが遅いお母さんが咀嚼しながら友香さんに手を振って見送ると、友香さんは目を細めて笑い、嬉しそうに手を振り返す。

「いってらっしゃい」

 という言葉を背に受けて玄関を出ていく友香さんはやはり女性だったけれど、とても頼もしい父に見えた。

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