あったかもしれない前日談2話

 目を覚ますと、くすんだ白い天井が見えた。辺りのようすをうかがおうにも、首が固定されたように動かない。

 仕方がないので左肩を浮かすようにして体全体を傾けて、まずは右側のようすを確かめた。

 そこには窓があった。誰かが開けたらしく、流れ込んでくる風でカーテンがかすかにそよいでいた。

 空気とともに入ってくるものは車のエンジン音で、割とうるさい。ほかにもテレビやテレビ台、クローゼットなどがあった。

 一番わたしの目を引いたのは点滴で、そこから伸びるチューブは少したわんだ状態でわたしの腕まで伸びていた。次に、反対側のようすを見てみると、そこにもカーテンがあった。

 けれどそれは間仕切りというよりは目隠しのようなものらしく、揺れてちらつく向こう側は出入り口だった。つまりここは病院でしかも個室らしい。

 わたしの家はわたしをこんなところに入れることができるほどお金を持っていたのだろうか。病院の個室という、普段あまりお目にかかれない場所のせいですこし興奮したわたしは、ほかにもなにか変わったものはないか探そうと、目に見える範囲のものをつぶさに観察した。

 カーテンの手前にある引き戸はおそらくトイレと洗面所だろう。もしかしたらお風呂もあるのかもしれない。

 わたしはいままで入院したことがなかったので、入院患者がお風呂をどうしているのかを知らなかった。友人のお見舞いに行ったとき見た部屋は一度に六人も収容できる場所で、トイレは廊下のさきにある共同のもので、お風呂は見かけなかった。

 それでも友人はあるていど、少なくとも学校に来ていたときとなんの変わりもなく見えるくらいには清潔だった。

 いまのわたしはどうだろう。わたしは動きづらい首の代わりに、ベッドの上を這わせるようにして腕を視界に収まる位置まで動かした。どれくらい目を覚まさなかったのかはわからないけれど、腕は垢が溜まって黒ずんでいる、ということはなかった。

 清潔であるように見えるのは、入院して日が浅いからなのか、看護婦さんやお母さんが拭いてくれていたのか。その絵を想像するとすこし恥ずかしい。

 そのとき、扉をノックする音が聞こえた。誰かがわたしのお見舞いに来てくれたのだ。

 わたしは、急に前を覚まして驚かせてはいけない、といまだに眠っているふりをするべく、返事をせずに肩を下ろして目をつぶった。

 扉が静かに開く。小さな足音が近づいてきて、私の横で止まった。

 この人は私が起きていることを知らないのだと思うと口元がにやけてしまいそうになる。寝たふりを続けられる人はこんなときにも無表情を貫けるのだからすごい。

 急に、見えない視界の中でも影が落ちたとわかるくらい暗くなった。

「ごめんね……」

 先輩の声だ、と思った瞬間、側頭部に激しい痛みが走った。

 わたしは堪らずうめき声をあげ、目を開けるとそこには驚いた表情で手を引っ込めた先輩がいた。

 先輩はジャージで、それも学校指定のものではなかったので、もしも部活があったのならわざわざ着替えてからわたしのお見舞いに来てくれたということになる。

 女子として、私服がジャージというのもどうかと思うけれど、背が高くて男みたいなところがある人だったので、似合わないわけではなかった。

「起きてたんだ」

 唾を飲んだ先輩はぎこちない笑みを浮かべ、おはよう、と言い、ここがどこだかわかる? と訊いてきた。

 わたしはそんなことよりもさきほどの側頭部の、いまもなお焼けるような熱さを発し続けている痛みのほうが気になった。

 もしかして、と先輩に問いかけたわたしはどうかしていたのか、先輩はかすかに怯えたように身をこわばらせた。

「頭皮は回収されなかったんですか?」

 先輩の目に戸惑いの色が浮かんだ。それはわたしがなにを言っているのかわからなかったからのようで、けれどわたしが混乱しているらしいことを察し、落ち着かせようとまたぎこちなく笑った。わたしはそれがもどかしくなった。

 べつに錯乱しているわけではない。それがわたしにとってもっとも気がかりなことだったのだ。どうすれば先輩に伝わるのか。もっとわかりやすく、最初から説明すればいいのだろうか。

「わたしの髪、横のほうの髪、なくなったままなんでしょうか?」

 先輩はわたしが言ったことを理解してくれたようだった。けれど、息を飲んで俯き、床に視線を彷徨わせて言葉を探し、しばらくなにも答えてくれなかった。

「わからない。私はその、包帯の下を見せてもらったことはないから。けれど、泣いてるおばさんの言葉からだと、たぶん、そんな感じがする」

 目を覚ましてから一番体が重くなった。ベッドに沈み込んでいく体はそのまま飲み込まれてしまいそうだった。

 わたしがうかつだったのだ。救急隊員を信用せず、意地でも自分で頭皮を回収し、抱きしめて放さなければわたしの頭皮は失われなかっただろう。それを思うと悔しくてたまらない。

「ごめん」

 わたしの嗚咽を聞いた先輩はベッドの陰に隠れて見えなくなってしまうほど深く頭を下げていた。なんで先輩が謝らなくてはならないのかがわからなかった。頭皮を見つけたのに持ってこずに放置したのだろうか。もしそうなら、わたしには先輩を許すことができそうもない。

「私のせいだよね」

 と先輩は顔を上げて、涙を浮かべながらそう言った。

「私が遅くまで練習に付き合わせたせいだよね。せめて、家まで送ってあげてたら、こんなことにはならなかったのに」

 それは違った。先輩の練習につきあって遅くなるのはいつものことで、事件の日に限った話ではなかった。それでも、いままでは何事もなかったのだ。強いて言うならば間が悪かった。

「この責任はどうやって取ればいいんだろう。どうすれば私は許してもらえる?」

 わたしの沈黙をどう受け取ったのか、先輩はそう許しを乞うた。わたしが許したり、罰したりするまでもなく彼女は深く反省していたのだ。それだけで十分だった。

「なんでもするから……」

「なんでも?」

 わたしは思わず反応してしまった自分の浅ましさが恥ずかしかった。先輩もいままで黙っていたわたしが急に反応したことに驚いたようだった。そこに食いつくの? とでもいうように目を瞬かせていた。

「う、うん。なんでも」

 食い気味に返事をする先輩は姿勢も前のめりで、わたしのベッドに手をついて、寝ているわたしに覆いかぶさりそうな勢いだった。わたしはまだ調べないうちから自分に宿った生命を感じ、自分の下腹部を撫でた。

「事故について、聞いてくれますか?」

 先輩は力強く頷き、椅子に座って居住まいを正した。わたしは率直な事実を後回しにしたい一心で、その事実を認めたくなかったので、簡潔に済ませることなく、外堀から埋めていくように周辺の細かなことから話し始めた。

 けれど、詳しく話せば話すほど、自分の思惑とは逆に、話は信ぴょう性を増していく。気休めの雑談が説得力を持ってわたしを襲い、自分が犯されたのだというあの出来事が現実だったと認めろと迫ってきた。

 原付の色、覆いかぶさってくるヘルメットの模様、革の手袋が軋む音。ついに、決定的な事実を口にせねばならない時がきた。

「わたし、レイプされたんです」

 先輩が息を呑んだ。わかってはいたことだけれど、改めて聞かされるとまた違った衝撃があるのか、先輩は目を閉じてうつむき加減になり、ゆるく頭を振って何かを否定しているようだった。

「汚いって思いましたよね。先輩、それでもわたしに触れられますか?」

 わたしは先輩に向けて手を差し出した。先輩はつばを飲み下し、恐る恐るその手を取って優しく口づけた。

「もちろん。君がそれを望むなら」

「じゃあ、もしもわたしが妊娠したとして、それを産みたいって言ったら協力してくれますか?」

「それは……ダメだ」

 先輩は頭を振り、わたしの手を握る力を強めた。

「一〇代の出産はリスクが伴う。君の身体のことを思えば、反対だ」

 わたしは、先輩がわたしのことを思ってくれているその愛を嬉しく思った。

「でも、なんでも言うこと聞くって言いましたよね、先輩?」


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