エピローグ3話

「そういえば……」

 と思い出したように菫が呟いた。授業内容や発見、教師の指導法に関する所感などを話しながらパンをかじっているときだった。

「教室から悪意とか憐憫みたいな空気感が消えたような気がするんですよね」

 最近は自身に対するいじめが減少どころか皆無であることに気がついた、と。だからといって菫に対して親しげではなくとも、恐る恐るであっても声をかけるようなクラスメイトはまだ現れていないらしい。

「依子がなにか言ったのかもね」

 本人からそう言う宣言こそないが、さきの事件で思うところがあったのか、菫を諦めたのか。

「もしも勝手なことを言わせてもらえるなら、諦めたんじゃなくて、先輩に託したんですよ、きっと」

 菫は私たちの間にあったペットボトルひとつぶんの隙間を埋めるように席を詰め、私に密着して微笑んだ。私が菫の手をとると、彼女は私の肩にもたれかかるように頭を乗せた。

「あったかい」

 それは気温のことなのか、相手の体温のことなのかわからなったけれど、私もどちらということもなく、同じような感想を抱いた。あったかい、と。


 任せてください、と言った菫はその宣言通り、夕飯を毎日作っている。私は初日に手伝って以来、キッチンに足を踏み入れたことはない。

 彼女は最初、私が手伝うことを嬉しそうにしていて、笑顔で見守ってくれていた。けれど、時間が少しもしないうちに私の体を出口の方に向けさせ、背中を押してキッチンから追い出した。

 口調こそ私を労ってはいたが、あれは一種の永久追放なのだろう。私はこの時間になるといつも暇を持て余していた。

 宿題は二人で同じときにやるので、私だけ先にやるわけにはいかなかった。

 そこで、朝の約束を思い出した私は蓋を閉めて久しいクローゼットの一角を開け、中を漁ってみた。そこには綺麗にたたまれ、ナイロン袋に包まれていた黒く、時代錯誤で芋っぽい、しかし純粋と言えなくもない長袖のセーラー服があった。

 貧乏だから買えないなどと言いつつ、じつは転校前に祖父母が買っていたというオチ。知ってはいたけれど、今更どんな顔して制服を着ていけばいいのか。袋を破くとかすかに糊のにおいがした。

 広げても折り目が残ったままで、それは一度洗濯しないと消えないのか、それとも一日吊るしておけば消えてしまうものなのか。

 私は洗いたての洗濯物を干すときに皺を伸ばすためにするのと同じことをこの制服に対してもやってみた。大きな音とともに埃が舞っただけで、何も変化しない。

「先輩?」

 エプロンをつけた菫がお玉を持ったまま、部屋の中を覗き込んできた。慌ててこちらに来なければならないほどうるさかったのだろうか。彼女は、私が手に持っていたセーラー服を見やると表情を明るくし、

「着てみせてください」

 と言って、台所のコンロに点されたままだった火を消しに行った。

 私は別段恥ずかしさがあったわけではないけれど、わざわざ着替えているところまで見せびらかさなくてもいいだろうと思い、部屋着にしていたシャツを脱いで、重たく厚い生地のセーラー服を身にまとった。

 糊が効いているのかやたらと肌触りの良い感触だった。あまりに厚ぼったく、まだ暑いのではないかと思っていたが、いがいと通気性がいいのか着心地は悪くない。むしろ冬は対策がないと寒いだろう。

 そのとき、上半身の丈が思いのほか短いことに気がついた。両腕を上げると裾がもちあがり、へそまで見えてしまう。

 けれど、私の観察不足のおぼろげな記憶の中ではクラスメイトたちの中でへそが見えている人はいなかった気がする。菫だったそうだ。見えていたら妊娠がすぐに発覚していたはずなのだ。

「先輩、着られました?」

 どうやら待っていたらしい菫の声が部屋の外から聞こえた。べつに見慣れているはずなのだから、そんなに気を遣わなくてもいいのに。

「ダメですよ、そういうの」

 少し呆れたようすの菫が現れ、私を見て目を輝かせた。かと思うと、すぐに怪訝な表情になる。

「もう。スカートも履かなくちゃダメですよ」

 言うが早いか、菫は私のホットパンツを下ろし、スカートに足を通させた。

 着替えを見られても恥ずかしくないと言ったばかりでもう言を覆すようで悪いのだけれど、着替えさせられたうえに間近で見られるのはさすがに恥ずかしい。

 しかし、菫はそんなことに気がついていないのか、一歩離れて私の全体像を眺めて嬉しそうにしていた。

「ほら、先輩も見てください」

 菫は自身のほうを向いていた私の体を回すようにして、私と背後にあった姿見を向き合わせた。

 そして、私の体の影から覗き込むように後ろから顔を出し、鏡越しに上目遣いで私を見やって感想を求めた。悪くはないと思うけれど、自分で似合っているとか可愛いとか言うのははばかられた。

「うん。お揃いだね」

 万歳、と両腕を上げてへそちらを披露すると、私の脇腹を持つように置かれていた菫の手のひらが直接触れ、冷たかった。普段は温かいのに、水仕事のせいで冷えてしまったのだろうか。

「あ、先輩。着るときはシャツ、着ないとダメですよ。服装検査はありませんけど、白無地が校則ですから。持ってますか?」

「ないかな。もしかしたら、中学生の時のがあるかもしれないけれど」

「じゃあ、今度買いに行きましょう。明日は私のを貸してあげますから」

 ありがとう、と私は菫の冷たい両手を取り、真冬に外で待ち合わせをしていた恋人たちのように、菫の手に吐息を吐きかけて温めた。

「先輩?」

「こんなに冷えて。いつもありがとうね」

「やだ、先輩。急にどうしたんですか?」

 照れたように赤くなった顔で微笑む菫は魅力的で、私もつい表情を綻ばせてしまう。

「変な先輩」

 菫はそう言って、けれど愛おしそうに自身の手を眺めていた。

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