エピローグ1話

半分寝ている目をこすり、時計の針を見るともう起きなくてはならない時間だった。

 三度目のスヌーズを止めるため、目覚まし時計に手をかける。頭のすぐうえでけたたましく鳴っていたというのに、菫は目を覚ます気配を見せることなく穏やかな寝息をたてていた。意外と図太いのかもしれない。

 私は起きてベッドから降りると、呼吸のたび緩やかに浮き沈みを繰り返す、菫の豊かな白い胸を覆うように布団をかけてやる。

 そして、寝汗ではりついた前髪をかき分け、額にキスをする。菫は小さくうめき、私から顔をそらすように寝返りを打つ。振られてしまった。

 私は裸のまま部屋から出て浴室に向かう。熱いシャワーを浴びるとだんだん目が覚めてきた。濡れた髪をかきあげて、曇った鏡を拭う。

 そこには菫にくらべて随分と貧相な私の体が映っていた。首筋や胸にかけて、ところどころ身に覚えのない痣があった。昨夜のうちに菫がつけたものだろう。キスマークなんていったところで、あまり綺麗な形になるものではないらしい。

 扉が開く音が聞こえ、鏡越しに後ろを見ると、全裸の菫が目をこすりながら浴室に入ってきた。

「しぇんぱい……私も」

 菫はそう言って、私の背中に抱きついてきた。豊かな胸の存在、かすかな寝汗でしっとりとした肌が吸い付いてくる感触を感じながら、私の陰に隠れてシャワーをほとんど浴びることができていない菫のため、私は菫ごと回って鏡に背を向けた。

「んー」

 頭に水流を叩きつけられている間、菫は唸り声をあげながら私に絡みつく腕の力を強め、額を背中に埋めてしまう勢いで押し付け始めた。

「浴びるなら起きなさい。お湯、もったいないでしょう?」

 菫はかすかに不満げな声をだしてから、私を拘束する手を緩め、鏡と向き合ってシャワーを浴びた。私もそちらを向き、菫を手伝う。流れる水に沿って菫のお腹に手を這わせてこすると、水をはじく重たくて粘り気の強い脂汗が落ちていく。

 菫はシャワーヘッドを見上げるように顔を上げ、顎から喉にかけて垂直になるのではないかと思うほど仰け反るとその姿勢を維持した。私は彼女の白い喉に優しく触れ、お腹にしたのと同じようにして汗を洗い流す。

 体のシルエットに合わせて手を動かすと、その手が胸に触れるたびに菫は小さく反応し、消え入りそうな声をあげる。

 うつむいて目をつぶっている菫は私の行動を止めるように、胸や秘部にある私の手に自身の手を重ねた。

「やめる?」

 菫はちいさく頭を振り、静止の手を緩めた。私が抱きしめるように触れるたび、菫は切なげな声を出した。私はすぐ横にある浴槽を見やり、菫の肩に顎を乗せるようにして彼女の耳元に近づいた。

「立ったままじゃ疲れるでしょ」

 菫は視線を浴槽に送り、目を閉じて頷いた。鏡に映る私が満足そうに笑った。私はシャワーを止め、浴槽に入ってからお湯を張る。姿勢が立ったままから座ったものに変わっただけで、私が菫を後ろから抱きしめているという状態に変化はなかった。

 足元から少しずつたまっていくお湯を感じながら、菫の長い髪をお風呂用のヘアゴムでうえにまとめてやる。

「先輩のは、私がしますね」

 菫はそう言って笑顔で振り返った。私も彼女の思うままに背を向け、自身の髪が菫の手によってまとめあげられていくのを感じていた。信頼している人の手が自分の髪に触れていることが心地よく、私も笑みがこぼれた。

「先輩? もしかして、痛いですか?」

 だいじょうぶだよ、と私は菫と向き合い、さきほどまで続けていた体勢に戻ろうとした。けれど、菫は後ろを向くことなく私の首に腕を回して抱きついた。私たちの距離は一気に縮まり、お互いの顔以外、見えるものはなにもなくなった。

「おはようのキス、です」

 顔を離した菫はいたずらっぽく舌を出して照れ笑いした。私が彼女の頬に手を這わせると、その思惑に気がついた菫は目をつぶった。

「私からも、お返しね」

 キスのあとの菫ははにかむように微笑み、恥ずかしさに耐え兼ねたのか、私の胸に顔をうずめてしばらく起き上がらなかった。私はその愛らしい後頭部や背中を撫で、朝の入浴を楽しんだ。

 お風呂からあがった私たちは頭にタオルを巻き、髪の水気を切っていた。菫は私よりも髪が長かったので、ドライヤー前のその作業が欠かせなかった。

 その作業がさきに終わった私はリビングの椅子に腰掛け、後ろに立っている菫の手によってドライヤーでの仕上げが行われる。菫は温風に手をかざし、熱くなりすぎていないかを確認してから私に風を当てた。

「先輩の髪、乾かすだけでウェーブかかるんですね」

 菫は私のゆるいクセ毛に沿ってブラシを通し、風を弱めて前髪をつくる。テーブルに置かれた鏡に映る私はいつもより髪型が整っていることがわかった。

「朝ごはん、作ってる時間ないですね」

 テレビのほうに視線を送ると、朝八時の天気予報が放送されていた。私たちの地域は雨。

「先輩、できましたよ」

「ん、ありがとう。じゃあ交代ね」

 いままで私が座っていた席に菫が座り、彼女の立ち位置に私が立つ。

 菫の頭に巻かれたタオルを外すと彼女の髪は崩れ落ちるように垂れ下がる。いくつかの束になってはいるが、おおむね乾いているようだった。

「行くとき、コンビニに寄っていこうか。それくらいの時間はあるでしょう」

「仕方ないですね。もう。先輩がお風呂に入るなんて言いだすから」

「菫が切なそうにしてたから提案したんだよ?」

「そんな顔してません」

菫は唇を尖らせた。鏡に映る彼女のそんな顔を見た私が笑うと、菫も機嫌を直したように相好を崩した。

 仕上げのドライヤーをあてながら櫛で彼女の髪を梳くとなんの引っかかりもなく通る。私が力をかけるまでもなく、櫛をさせば重力だけで最後までひとりでに流れていきそうだ。

「菫の髪は乾かしてもサラサラでまっすぐなんだね」

「そのかわりに、アレンジも効かないんですよね」

「綺麗だよ。そんなことしなくたって」

 菫が顔を赤くして俯いた。私は彼女の顎の線に沿って指を這わせ、顔を持ち上げる。鏡に映った菫は驚きの表情で、照れで紅潮した顔を隠せなくなったせいで落ち着きがなくなった。私は彼女の首に腕を絡めて顔を横に近づけた。同じ鏡にふたりの顔が映る。

「大丈夫だから」

 菫は目を伏せ、私の腕に手をかけてかすかに頷いた。私は目をつぶり、こめかみ同士を軽くぶつけるようにしたあと、彼女の髪を乾かす作業を続行した。

 菫の前髪も整い、髪も乾いたとき、私は彼女の後ろ髪をひと束取り、鼻を近づけた。

「先輩?」

私と同じシャンプーを使ったはずなのに、どこか違うものの香りがするのはなぜだろう。満足した私が持っていたひと束の髪にくちづけすると、菫はちいさく反応した。髪でも感じるものなのだろうか。

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