第一章5話

 翌日、中庭に行くと誰も待っておらず、本当に菫は私から離れてしまったのだとわかった。

 菫と昼食を食べていた期間より、一人で食べていた時間のほうが長いはずなのに、なぜだろう。一人の寂しさで身が裂けそうだった。

 過去の私はこれほどの孤独にどうやって耐えていたのだろう。その感覚を取り戻したくもあり、また、それだけは嫌だと思い出を心の拠り所にしようとする私がいた。

 きっと、私と出会う前の菫はいまの私と同じ気持ちだったに違いない。耐え切れない孤独の重さに負けた私はパンを握り締めて泣いていた。

 校舎から私を見下ろすいくつもの視線のなかにひとつ特別を感じたけれど、振り返ればそれは終わってしまうことを直感したので、私は気づかないふりをして、なんでもないように取り繕って、中身が袋の中に飛び散ったパンを懸命にかじった。


 放課後、泣きはらした目を隠すこともなく家路に着いた。学校から少し離れたところに来たとき、曲がり角に人影があった。

「先輩」

 それは泣きいりそうに表情を歪めた菫だった。

「先輩、私、ごめんなさい」

 菫はそう言って頭を下げた。

「私、このままじゃ先輩も巻き込まれるって思って。でも、本当は私がいじめられることにもう耐えられなくなっただけで、先輩を見捨てて」

「いいよ、わかってる。大丈夫だから」

 私はつられて泣きそうになるのをこらえ、理解あるふりをして微笑んだ。


「レイプされたのは。まだ中学生のときでした。受験が終わって、気が緩んだときに襲われて……。依子さんは中学の時からお世話になってたんです。だから、最初は私のこと慰めてくれてて。おかげで、なんとか高校にも行けるようになって」

 依子さん、と菫は言った。昨日のクラスメイトを、いじめの首謀者を親しげに、とは言わなくても、かつて親しかったもののように。

「でも、私が妊娠してるって分かって、産むことを反対したのも依子さんで。従わなかった次の日から、私が襲われたことがクラスに広まってて、いじめも始まって。あんなによくしてくれていた依子さんがいじめの主犯だったなんて、最初は信じたくなかったです」

「なんで、そうまでして産みたいの?」

 菫は困ったように笑った。

「わかりません。依子さんが言ってたことが正しいのかも。けれど、宿った命を消すことなんて、私にはできなくて」

 ここに愛なんてないけれど、とお腹を撫でながら菫はそう言った。撫でることで服の隙間が埋められ、お腹の膨らみが目に見えた。

「どういうつもりかしら」

 私たちが気がついたときにはすでに、目の前に依子が立っていた。そのあまりにも穏やかではない表情に戦慄した。

「もう関わらないって約束しなかった? それとも、体に教えないとわからない?」

 依子はそう言ってゆっくりとした動作で足を持ち上げ、鋭く刺すように私の腹を目掛けて蹴りを放った。

 しかし、結果としてその蹴りは私には届かなかった。菫が私の前に身を乗り出し、かばったからだった。そして、蹴りを受けたその身は赤子が宿っているそれだった。

 菫は腹を抱えてうずくまり、青ざめた顔から脂汗がにじませていた。詰まったような浅い呼吸を苦しそうに繰り返し、声とも言えないうめき声を出していた。

「お母さん……」

 私がすぐにしたことは救急車を呼ぶことだった。私が診たところでどうにかなる問題ではないことは分かっていたので、お母さんのように手遅れになる前に助けを呼びたかった。

「あなた、騒ぎを大きくするつもり?」

 依子が私の携帯を奪おうと手を伸ばしてきたが、それを制して電話をかけた。救急車を呼べばきっと菫の妊娠は親に露見することだろう。それは菫が望むことではない。

 けれど、いずれ産むときには言わなくてはならないことだ。今先延ばしにして助かる命を危険にさらしてまで隠すことではないと思う。菫が助かるのならば、今後彼女に恨まれても構わない。


 病院に搬送され、処置室に運ばれていく菫を見届けたところで緊張の糸が切れ、そばにあったベンチにへたりこんだ。

 走るような足音が聞こえた。そちらに目を向けると、乱れた髪のままこちらに向かってくる女性がいた。彼女は処置室の前に来ると足を止め、息を乱しながら部屋の扉と私の顔を交互に見た。

「菫……ちゃんのお母さんですか?」

「娘になにが?」

 私はおばさんに隣に座るよう促し、私が知っていることを全て話した。

 本来なら菫の口から語られるべきことかもしれないし、本人の許可もなく話すべきことでもないのだろうけれど、術後の彼女には穏やかでいてもらいたい一心で、彼女が抱えていた問題を明かした。レイプされたこと、それによって妊娠していたこと、いじめられていたこと、そして今まさに宿った命が失われようとしていうこと。

 おばさんは静かに私の話を聞いてくれていた。

「娘の変化に、全然気がつかなかった。母親失格ね」

 おばさんは私の話が終わるとそう言って頭を振った。高校生にもなれば隠し事も多いだろう、とおばさんをかばおうとし、けれどやめた。そういう言葉を求めているわけではないことがわかったからだ。

「明るい子で、家では悩みの片鱗さえ見せなかったの」

 話の途中で、硬質な足音が聞こえてきた。音の主はスーツ姿で駆けてくる、菫の父だった。

 私から同じ話を二度する気にはなれず、事情の説明はおばさんに任せた。そして、手術は夜になっても終わらず、家の人が心配するだろうから、と言われ、私は病院をあとにした。


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