第一章4話

「ねえ、橋本さん」

 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴ったので、また明日、と菫と別れて教室に入ろうとしたときのことだった。

 後ろから声をかけられ、振り返るとそこにいたのは顔も名前もいまいちピンとこないけれど、かろうじてクラスメイトだとわかる女の子がいた。女の子と呼ぶにはあまりにも気の強い目つきで、大人の女性然とした人だった。

「最近、藤岡さんと仲いいわよね」

「誰?」

「とぼけなくても大丈夫。一緒にいるところ、何度か見かけたことあるもの」

 お前は誰だ、という意味で訊いたのだけれど、彼女はそう受け取ってはくれなかったようだ。おかげでいま向き合っている人の名前を知ることはできなかった。

 けれど、改めて尋ねるほどの気力も起きない。私の言葉に含まれた刺を、緊張や警戒心からと読み取ったのか、親しげに微笑む少女の目は笑っておらず、そのちぐはぐさが気持ち悪かった。

「あの娘と関わるの、やめたほうがいいかもしれないわよ。彼女、いじめられてるんだって。一緒にいたらあなたも目をつけられるかも」

「言われなくてもわかってる。あなたには関係ないでしょう?」

「あなたのために言ってるんだけどな」

 少女はそう言って私を押しのけて教室に入り、体を反転させてわたしと向き合った。その顔は、さきほどよりも口角があがったいやらしい、悪意に満ちた笑みを浮かべていた。

「じゃあ、これも知ってる? あの子、妊娠してるのよ」

 ああ、と息を漏らした。少女は私のリアクションを楽しみにしているのか、にやにやしていた。けれど私は、彼女の期待に応えることはできない。やっぱりか、としか思わなかったから。

 吐き気を訴えたときの菫を保健室で寝かせ、衣服を緩めようとしたとき、肌着をわずかに浮かせる丸みを帯びた腹部が目に付いた。最初は豊かな胸を持つ人ならば避けることのできない、全身の柔らかい肉感のたまものと思った。

 けれど、寝ていても横に流れることなく形を保ったそのお腹を見て、ただの脂肪ではないことに気がついた。

 それが胎児である確信こそなかったが、予想くらいはしていた。その確信を他人から得るとは思ってもいなかったし、少なからずショックもある。

 けれど、本人の意向をないがしろにして笑いものにしようとしている、目の前の少女に対する反感があまりにも強すぎた。

「それも知ってる。だったらなに?」

 ふうん、と少女は先程までの笑みを消し、能面のように静まり返ったような無表情になって私を見つめた。

 相手が悔しがるならなんでも言ってやろうと思っていたので、私は勝った気になって彼女の横をすり抜け、自分の席に座った。


 それからというもの、授業中はついその少女のほうに目がいってしまうようになった。授業で教師に指名されていた彼女は永倉と呼ばれ、友人からはヨリと呼ばれていた。永倉さんは、あまり目立たない私とは対照的なクラスの中心にいるような子だった。

 にこやかな微笑みでもって自身に付きまとう生来の厳しい雰囲気を打ち消し、誰にでも親切な委員長を演じていた。きっと、私も出会い頭から敵意を向けられていなければ、彼女に好印象を受けたに違いない。

 もちろん、いまさらそんな印象は持てない。彼女の本性、といっていいのかはさだかではないけれど、それに近いものを知ってしまったので、信用するわけにはいかない。

 弱者を貶めることでしか自分の立ち位置を確認できないのだろう彼女の性質はさほど特殊なものではないはずだ。

 誰だって不安は打ち消したい。けれど、そのために菫を使うことは許しがたいことだった。

「永倉ヨリさんって知ってる? 私のクラスにいるんだけど」

 昼食の途中、思い切って菫に聞いてみた。彼女は野菜ジュースを口に運ぶ手を止め、眉根を寄せて怪訝そうに私を見た。

「永倉依子さん、じゃないですか?」

「かもね。ヨリって呼ばれてるところしか聞いたことないけれど」

 厳しい雰囲気の、と永倉さんの特徴をいくつか挙げると、菫はそのたびに頷いた。

「知ってます。中学の頃から部活とかでお世話になっていて。依子さんがどうかしたんですか?」

「いや、なんでもないよ」

 あの警告に関しては言わなくてもいいだろう、と言葉を濁し、代わりにいつも話しているように彼女の所感を話すことにした。

「授業中、よく見てるんだけど優秀だよね。私に話しかけてきたときは裏というか悪意をちらつかせてたけど、ほかの人にはうまく隠してる感じっていうか。いや、違うか。私にだけ敵意を持ってるのかな」

「へえ」

 菫はにこやかな表情で、いつもはしないような大きめの声で相槌を打った。相槌というよりは話を遮ったようにさえ思える。

「どうしたんですか、先輩。続けてください」

 笑顔の菫から、言いようのない威圧感を感じた。

「どうしたの、菫。なんか怒ってる?」

「先輩はわたしが怒るようなことをしたんですか?」

 まるで身に覚えがなかった。けれど、こういうことを言う人が怒っていないはずがない。私は自分の過失を思い出そうとして黙って頭を巡らせた。

「先輩の話、終わっちゃったなら次はわたしが話してもいいですか?」

 いいよ、と頷くと、菫は国語の授業であったことを話し始めた。

「アイラブユーを「月が綺麗ですね」って訳した人がいるらしいです。聞いたことありますか?」

 怒りのわけを説明してくれるものだと思っていたけれど、どうやら本当にただ話したかっただけのようで、怒ったことは水に流してくれたのだと安心した。

「風情があるといえばそうかもしれませんけれど、わたしはこの表現があまり好きになれません」

 そうなんだ、と言いつつ、菫にも嫌いなものがあることに少しの驚きと、知れたことの嬉しさが込み上げてきた。

「もしもそんなことを言われたら、「わたしといるのに月を見るんですね」って言い返したくなります」

 そう言って菫は小首をかしげるようにして微笑んだ。相手はきっと得意げにその告白を選んでいるはずなので、そう切り返されると戸惑うだろう。

「わたしって結構わがままなんですよ?」

 菫はそう言っていたずらっぽく笑った。

 それでようやく合点がいった。ようするに彼女は焼き餅を焼いたのだろう。私が永倉さんを見ていたことを話すから、おそらく多くの人にとって魅力的に見える永倉さんに私も例に漏れることなく惹かれたのだと早とちりしたのだ。

 なんとなく敵対関係にあるのだろうとは思っていたが、彼女に私をとられまいとするその姿は見ていて心地よいものがあった。可愛い後輩じゃないか。

「もっとわがままでもいいと思うけどな」

 そうでしょうか、と菫は野菜ジュースを飲み干した。

「お腹がすきました」

 そう言う菫の膝にはあいかわらず未開封のパンがあって、けれど彼女はそれに手をつけようとしない。

「パン、食べたら?」

「食欲はないんですよね」

 菫は困ったように笑った。お腹がすいた、というのは食欲があるということではないのか。

 菫はゴミをひとまとめにして脇に寄せ、代わりに数学のノートを取り出した。彼女は勉強の話を好む。

 開いたノートには蛍光ペンでいくつか線が引かれており、そこが私に教えて欲しい箇所だという印だった。

 私はその線をなぞる白く細い指を目で追いながら、昨年学んだことを思い出しつつペンを取る。

 そのむかし、特異点の図と説明を見て数学者を志した私である。一度習ったところを人に教えることに難はない。

 ノートの余白に書き込みながら説明し、横で頷く菫を見る。表情は真剣そのものだが、どこか楽しそうでもある。

 彼女はわざわざ説明しなくても理解できているのではと思うほど飲み込みが早く、なぜ私に教えを請うのかわからなかった。

 もしかしたら、菫は勉強がしたいのではなく、勉強の話がしたいのではないだろうか。

 普通の高校生がするようなことを、教室で繰り広げられているようなことをあえてすることで、自分と周りとのずれを修正しようとしているように見える。

 それ自体は悪いことでは似けれど、休み時間にまで勉強している人は少数派ではないだろうか。もっと楽しい話をしよう。

「あらー、菫ちゃんお友達ができたの?」

 そこに、媚びたような甘い声が割り込んできた。菫はその声に肩をはね上げて驚き、怯えたように手を這わせ、行き着いたさきにあった私の手を握った。

 勉強会の邪魔をしてきたのは、永倉依子だった。教室で発する声とはまったく異質な猫なで声が癇に障る。

「なにかご用?」

 私は怯える菫を守るよう、永倉に向かって敵意を隠さない棘のある声を出した。

「いえね、最近ぼっちたちが勘違いしているようだから目を覚まさせてあげようと思って。ぼっちは百人集まってもぼっちのままよ?」

「余計なお世話。帰ってくれる?」

「いい話と悪い話、どっちから聞きたい?」

「菫、行こう」

 私は菫の手を引いて立ち上がり、永倉依子の脇をすり抜けようとした。

「悪い話。菫ちゃん、その人、アナタの妊娠を知ってるわよ。もちろん、産もうとしていることも」

 永倉依子は私を見つめ、続けて言った。

「気持ち悪いでしょう。レイプの結果ではなく、愛の結果であると自分の中で置き換えようとでもしてるのかしら」

 菫の腕から力が抜け、掴んでいた私の手からするりとこぼれ落ちてしまった。あるいは、私が彼女の手を放してしまったのかもしれない。

「そして、いい話」

 私たちをあざ笑うように話を続ける永倉。けれど、私は菫から目が離せず、言葉もどこか遠くに感じた。

「いじめを終わりにしてあげましょうか」

 菫は俯かせていた顔を跳ね上げ、すがりつくような表情で永倉を見た。とりすがろうとする体を抑えることが精一杯とでもいうように震える体を自ら抱きしめ、何度も頷いた。

「条件はひとつ」

 永倉そう言って人差し指を立て、左右に振った。そして、その指を私に向けた。

「そいつと縁をお切りなさい」

 菫は指が示す先を追うように私を見ていた。

 そして、頷いた。

 永倉は満足げに微笑んだ。

「じゃあ、そういうことだから」

 彼女は手を振り、菫を引き連れて中庭から去っていった。菫は俯いて私の横をとおり、ちらちらと何度も振り返っては私を見ていた。

 菫は私と永倉を天秤にかけ、私を選ばなかった。私はそれをよしとできるほど淡白ではない。

 けれど、彼女の選択が正しいということもわかってはいた。

 菫にとって私は教室に居場所がないから一緒にいた避難所のようなもので、いじめがなくなるのであればもう私とともにいる必要はないのだ。

 だから、これでいい。菫はクラスに帰る場所ができ、私は独りに戻っただけなのだから。

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