第一章3話
週明けの昼休み。私はいつもどおり購買でパンを買い、遠回りして教室に戻ろうとした。下駄箱に差し掛かると、そこには先週倒れていた少女がいた。
下駄箱にもたれかかり、なにかを待つ暇つぶしのように片足をぶらつかせてはそのつま先を眺めている。視線を横に送ったときに私が見えたのか、急に顔をあげて表情を明るくした。
手にしていたパンの袋とともに、少女は跳ねるような小走りで私のもとに来て、深々とお辞儀した。
「先週はありがとうございました。これ、洗っておきましたので」
差し出されたハンカチは綺麗にたたまれており、アイロンがけまでされているようだった。
「それで、その」
少女はすこし躊躇うように黙ったあと、持っていたパンの袋を自身の正面にかざし、
「お昼、ご一緒して頂けませんか」
頬を朱色に染め、あちこちに視線を彷徨わせたあと、上目遣いに私の目を見た。そのようすがなんとも愛らしく、私はふたつ返事で彼女を中庭に連れ出した。
下駄箱から出て校舎に沿って歩き、半周もすると花壇が見えてきた。花に囲まれたその中心には池があり、錦鯉が優雅に泳いでいるが、池の濁りかたや藻の生えかたがひどく、お世辞にも美しいとは言い難い。
その正面に申し訳程度に据えられたベンチに二人で腰掛け、昼食にする。顔を上げると四方を校舎か連絡通路に囲まれており、どうにも監視されているような気分になる。このベンチを使用する生徒が極端に少ない理由がわかった気がした。
「先週は先輩にたくさんお話してもらったので、今日はわたし、いくつか話題を用意してきたんです」
少女は膝の上に未開封のパンを置き、すこし気合を入れたようすでそう宣言した。
わざわざ用意しなくても、その場で思いついたことを思うままに話せばいいのに、と先週の自分と比べてみたけれど、なるほど、私の話はとりとめがなかったというか、世間や学校で起きたことに対する所感を述べていただけなのでつまらなかったのかもしれない。
「先輩はご自身の名前の意味や由来について考えたことってありますか?」
目をつぶって話す少女のようすはプレゼンをしているようでもあり、いかにも用意してきた文章を言葉にしている感じがあった。
さて、と私は考えた。自分の名前の由来。お母さんの家系はずっと名前に「香」の字が続いているらしい。お母さん然り、お祖父さん然り。おそらくその前の代の人たちも。
けれど私には「香」はなく「薫」だ。意味はあまり変わらないが、代々続いてきた伝統を断ち切っている。私が生まれる前に絶縁したということもあり、流れを変えることで、お母さんはお祖父さんに対して反旗を翻したかったのかもしれない。とはいえ、完全に違う名前にしなかったあたり、未練がうかがえるけれど。
「知らないかな。あんまりそう言った話をする機会はなかったから」
「考えてみると面白いかもですよ。きっと、そこには愛がありますから」
先輩の名前はとても綺麗ですから、きっと素敵な願いがこめられています、と少女はたおやかに微笑んだ。
自分でもよくわからないものを褒められるとくすぐったいものがあるけれど、悪い気分はしなかった。
「わたしは自分の名前は気に入っているんですけど、由来が単純ですこし恥ずかしくて……」
少女はそこで言葉を止めた。私はパンをかじりながら彼女の顔を覗き込む。
「もしかしてわたし、先輩に自己紹介してませんよね?」
そういえばそうだ、と私は頷いた。少女があまりにも私を知っているふうで、親しげだったから私も彼女を知っている気になって、改めて尋ねようとしていなかった。
「すみません、ひとりではしゃいじゃって。恥ずかしい」
少女は落ち込んだように身体を丸めたが、すぐに背筋を伸ばして私を正面から見据えた。
「わたし、一年の藤岡菫です」
よろしくお願いします、と菫は柔らかい笑みを浮かべた。じゃあ私も一応、と菫はすでに知っているようだけれど、いまだ自分からは名乗っていなかったので、私も自己紹介として学年と名前を告げた。
「あってる?」
「はい。わたしが知ってる先輩の名前と一致しています」
別人でも困るけれど、覚え直してもらう必要がなくてよかった。
「それで? 菫の由来って?」
菫は照れたように笑い、さきほど途切れてしまった話を続けた。
「父が好きな曲の中に『菜見子』っていう歌があるんです」
その曲は作詞した武田鉄矢に娘が産まれたときのことを唄った歌なのだそうだ。娘が産まれたという知らせを聞いたとき、彼は菜の花を眺めていた。だから「菜見子」なのだとか。
「その歌詞の中にこんなフレーズがあるんです。『輝く日本の星にならなくていい 野に咲く花になるように』って。父はその歌に共感したみたいで。だから、野に咲く花の菫をわたしの名前にしたんだそうです」
最初はそのまま菜見子にしようとしたらしいんですけど、母に反対されたんですって、と菫はそのときの光景を思い浮かべたのか、小さく笑っていた。
「由来があるっていいね。自分の名前を好きになれそうで」
「先輩の由来ってどんなものなんでしょうかね」
「さあ? お祖父さんが線香作ってるからじゃない?」
それでも素敵です、と菫は言った。受け継がれるものがあるというのは、それだけでロマンチックだと。
「絶縁した孫を引き取ったのだって、どうせ跡取り欲しさだろうし」
菫が首をかしげた。なんでもないよ、と言いつつ、私は菫の膝に乗ったまま未開封のパンに視線を落とした。
「まだ体調悪い?」
「いえ、食欲がないのはいつものことなので」
食べます? と菫は私にパンを差し出した。少し物足りなさを覚えていたので、ついつい伸びてしまいそうになる手を抑えてその申し出を断った。ちゃんと食べなくては体に悪い。
「わかってはいるんですけどね」
菫はポケットからピルケースを取り出し、小指の爪よりも大きい楕円形の錠剤と紫色のソフトカプセルを口にいれ、脇に置いてあった野菜ジュースで飲み下した。
私がそのようすを凝視していたので、それに気がついた菫は野菜ジュースを飲み終えてから私のほうを向き、首をかしげるようにして笑いかけてきた。
「ただのサプリメントですよ」
そっか、ととりたてて追求することもなく、私はいちごオレを飲み干した。
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