第一章2話

 女の子は吐き気が再発したらしく、地面を擦るように動かしていた足を止め、きつく目を閉じてこみ上げてくるものに耐えていた。

 幸い、保健室の手前にトイレがあったので、中に入った。

 保健室で休んでいる人のためのトイレなのか、休み時間でも静かで誰もいない。到着するなり少女は便器に向かって胃の中のものをすべて吐き出した。

 とはいっても、朝から何も食べていなかったのか、出てくるものは黄色味がかった胃液だけだった。

 私は何ともいえない酸い匂いをトイレ内に充満させまいと窓を開け、入口近くにある照明ボタンのすぐ下にあった換気扇のスイッチを押した。

 やがて女の子は個室から出てきて、壁に手を付きながら歩いて洗面台に向かっていった。手についた唾液が壁に移り、少女が歩いた軌跡を残していったが、それも回数を重ねていくうちに薄くなり、やがてなくなった。

 うがいをしているのか、継続して吐いているのかよくわからない状態にあった女の子は蛇口を止めた。

 彼女が顔を上げた拍子に、鏡越しだが私と目があった。女の子は私に心配ないと伝えたかったのか、無理やり微笑んでみせた。

 その笑顔があまりにも痛々しかったので、私は目を伏せて見なかったことにした。

 少女はハンカチを探しているのか、ポケットを撫でるように触っていたが、見つからなかったらしく、袖で口元を拭おうとした。

「使っていいよ」

 私が自分のハンカチを差し出すと、女の子は猫背のまま首だけを動かして私の顔とハンカチを交互に見やり、

「ありがとうございます」

 とハンカチを受け取った。さきほどまで涎にまみれていた少女と同一人物とは思えないほど上品な手つきでハンカチを持ち、口を軽く押さえるようにして水気を取り、手を拭いた。

「洗って……返しますね」

 少女はたおやかに微笑み、曲がっていた背筋を伸ばしてゆっくりと廊下に向かって歩き出した。

 その流れるような所作の中に彼女の強さと脆さを同時に見た気がした。

 吐いたことで少しは楽になったのだろうか。

 けれど、その足取りはおぼつかなくて、ここまで面倒見たのだからいまさら放ってはおけまい、と私は少女の腰を抱くようにして彼女の体を支えて歩いた。

 驚いたように私を見上げた女の子は上気した頬をいっそう赤らめ、それを隠すようにすぐうつむいてしまった。



 どうやら看病中に居眠りしてしまったらしい。

 気がつくと窓の外は夕焼けで、グランドから体育会系のなにかの部活が声を張り上げて練習しているのが聞こえた。

 私たちが昼休みに保健室にきたとき、保険医は不在だった。いつ帰ってくるともわからなかったので、勝手に少女をベッドに寝かせ、不慣れながら看病した。

 少女はベッドに触れたことで緊張の糸が切れたのか、倒れこむように体の力が抜け、意識を失ったのか眠りに就いたのかわからない状態に陥った。

 私にできる看病といえば汗を拭いてやり、苦しくないように衣服の拘束を緩めてやることだけだった。

 薬は市販のものとはいえ、どれが適切なものなのか判断できなかったので怖くて使えなかった。自分で飲むならなんとなくでわかるものの、他人だと外から見た症状だけで判断するのは危険な気がした。

 少女の額に乗せたタオルがぬるくなっていたので交換しようと、タオルを剥がして冷水で洗った。

 きつく絞ったタオルを広げ、少女の額に合う大きさに畳み、髪をどけて再び額に乗せてやる。その感触に反応したのか、少女は小さく呻き、目を覚ました。

 唇から大きく息を吐き、ゆっくりとまぶたを開く。しばらくはそのまま天井を見つめていたが、やがて首を回して私のほうを見た。目が合ったので挨拶すると、少女は嬉しそうに微笑みを返してきた。

「先輩、よかった。夢じゃないかと思ってました」

 少女はまぶしそうに私を見つめた。そこにあるのはひたむきな感謝で、そんな感情を向けられたのはあまりにも久しぶりだったので照れくさくなってしまった。

「大げさだね。世界が終わる夢でも見た?」

 少女は目を閉じ、首を振った。

「いいえ。大げさなんかじゃないです。わたしにとってはそれぐらい、すごいことだったんです」

 偽りのない感謝はそれだけで胸が温かくなるけれど、むず痒いし恥ずかしい。もうそのへんで勘弁してくれ、と私は誤魔化すように少女の話を聞いた。

 微熱は朝からあったけれど、そこまでひどくはなかったこと。昼休みに中庭に行こうと思ったら急激な吐き気に襲われ、うずくまっていたこと。助けを求めても、誰も手を貸してはくれなかったこと。

「わかっていましたし、慣れてもいたんですけれどね。やっぱり心細かった。こんな気持ちで最期を迎えるんだと思ったときです。先輩が手を差し伸べてくれたのは」

 なぜみんなが彼女を無視していたのか、だいたいの見当はつくけれど、今はそれを訊くときではない。

「先輩のおかげで、精神的には元気いっぱいですよ」

 少女は微笑み、寝たままの姿勢で力こぶをつくってみせた。

 ところで、彼女はなぜ私のことを知っているような口ぶりなのだろう。確か初対面のはずなのだけれど。

 それを尋ねると少女は口元に手を当て、小さく笑った。

「だって先輩、結構有名人ですよ? ずっと違う制服着てるし、目立ってます」

 嫌だね、と私は大げさなリアクションで田舎の狭さを嘆いてみせた。

「ですね。噂とか、悪い話はすぐに広まりますから」

 女の子はかすかに面を下げ、寂しそうに笑った。

「私、いじめられてるんです」

「そうじゃないかと思ってたよ」

「私と話してることがばれたら、先輩もいじめられるかもしれませんよ」

「後輩にいじめられるほど腑抜けなつもりはないよ」

「主犯は先輩のクラスメイトですよ」

「学年超えたいじめって。あなた、なにしたの?」

「たいしたことじゃないんです。ただ、人間関係のこじれというか、先輩の癪に触ったんでしょうね」

 女の子はしわにならないようにと脱がせていたスカートを机から取り、着替え始めた。

「なにも変わらないよ」

 女の子は不思議そうに振り返り、小首をかしげた。

「実害こそないけど、教室では居場所なんてないし」

「先輩?」

 思わず口をついてでた本音にはっとし、顔を上げると女の子が心配そうな眼差しを私に向けていた。なんでもない、と慌てて誤魔化したけれど、彼女は引き下がらなかった。

「どうせ、話し相手なんていないしさ。だから……」

 言葉を濁して女の子のちらりと見やると、彼女は柔らかく微笑んでいた。そして、一度降りたベッドに再び膝をつき、手を伸ばして私の手を握った。

 その手から伝わる温度が懐かしく、こうして人に触れたのはいつ以来だろう、と考える間もなく胸にまでぬくもりが染み入ってきた。

 それから私たちは保健医が現れるまでくだらない話をした。女の子はその話をあまりにも楽しそうに聞いてくれるので、つい私も嬉しくなってしまった。

 つまらないと思っていたことであっても、こうしてみると違うものに見えてくる。

 保健医の連絡を受け、少女の母親が迎えに来たという。ここまでかと思った私は鉢合わせないように席を立ち、保健室から出ていこうとした。少女は名残惜しそうに、泣く一歩手前のような目でこちらを見送っていた。またね、と彼女の頭を撫でてやった。

「ハンカチ、ちゃんと返してね」

 そう言うと、少女は思い出したように表情が明るくなり、

「はい」

 と嬉しそうに答えて微笑んだ。

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