第一章1話

 午前最後の鐘が鳴り、昼休みが始まった。

 私はいままで広げていた数学の教科書と白紙のノートを閉じ、鞄にしまった。

 転校してきたこの学校は授業の進みが遅く、以前在籍していたところで学んだ範囲に追いつくまでまだだいぶ時間がかかりそうだった。

 私は購買でお昼ご飯のパンを買うべく、鞄から財布を取り出して教室を出る。

 三階の廊下の窓から見える桜の木は枝が目の前まで迫ってきており、春に転校してきていたら、手の届く距離で花見ができたのに、とすこし惜しんだ。

 木の手すりを撫でながら階段を下り、一階に着くと階段脇にある購買はまだあまり人がいなかった。

 焼きそばパンとカレーパンを手に取り、会計を済ませたころになると全校生徒のうちの半分は占めるだろう弁当を持ってきていない人が集まり、人ごみで階段までたどり着くことが困難になった。

 これは古い建造物の弊害で、通行の多い場所に人が集まりやすい購買を設置したまま、移動も改築もされていない。

 人が収まるのを待つのも癪だったので、私は人ごみから外れ、下駄箱の方に向かって歩き出した。階段はそちら側にもあるのだから、無理して人波をかきわけなくてもいいのだ。

 下駄箱に差し掛かったとき、穏やかな笑い声が聞こえてきた。

 緩やかに時間が流れている。以前在籍していた学校は受験受験でせわしなく、ここまで和やかな空気を感じたことはなかった。競争なんてしなくても生きていけるという肯定感。

 そのとき、私はうずくまっている少女を見つけた。

 フラッシュバックのように、倒れているお母さんの姿が思い浮かんだ。少女は下駄箱の陰に隠れるように、学校の中と外を隔てる境界線であるすのこのうえで遠慮がちに小さく体を折り畳み、吐き気をこらえるように口元を押さえていた。短い呼吸を繰り返し、額から流れ落ちる汗ですのこに染みを作る。上気して赤くなった頬から熱が伝わり、なにかしらの病気であることは明白だった。

「大丈夫?」

 私は少女に駆け寄り、彼女の顔を覗き込むように身をかがめて背中をさすった。

 顔を上げた少女は涎を垂らし、うるんで虚ろに見える瞳で私を見上げた。口元を押さえていた手に糸を引いていた唾液や濡れた唇、汗で艶かしく光る喉に目を奪われ、緊張が走る。このまま見つめていると飲み込まれてしまいそうだった。

「せん……ぱい?」

その声に正気づいた私は、途端に恥ずかしさがこみ上げてきて、それをごまかすため助けを求めるように辺りを見回した。

 そのとき、はじめて異変に気がついた。すれ違う人すべてが私たちを無視するように歩いていく。なかには心配そうに見やる人もひとりふたりいたが、声をかけようとするとそれだけで逃げるように駆け出してしまう。

 そもそも昼休みには人通りの少ないこの廊下では、これ以上待っていても助けが来る可能性は低い。私はお母さんのときのように手遅れにならないよう、あのとき友香さんがなにをやっていたかを思い出し、その手順に従うことにした。

「救急車、だよね」

 私はポケットに手をいれ、中をあさってから携帯は教室に置いてきた鞄の中だということを思い出した。

 袖を引く力に気がつき、視線をそちらに向けると少女が弱々しい力で私の服をつまんでいた。

「どうしたの? どこか痛い?」

「先輩は見つけてくれるんですね、わたしを」

 少女はそう言って涎のついた手で私の手を握った。事情はわからないけれど、みんなに無視されて、助けの手を差し伸べてもらえなかったことが肉体的にも精神的にも辛かったのだろう。病気であればなおさらだ。

「もう大丈夫だから。立てる?」

 私は少女に肩を貸し、立ち上がった。少女は大きく目を見開き、吐息のような声を漏らしてかすかに微笑んだ。

「もっと。もっとわたしとお話してください」

 いいよ、と私は頷き、少女の歩調にあわせてゆっくりと保健室に向かって歩き出した。


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