第20話 いくつかの祈り
抜き身の
ようやく、正しいものが追いついてきた。
忘れようもない東京最後の思い出が、ラッシュフィルムのように浮き上がる。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ここは東京最大の電波塔だった場所だ。そう言われても、誰も信じないだろう。
展望台の
生きて自分で動いているものは、一人だけだ。
みかんは頬の血をぬぐい、非常階段を駆け下りる。扉はほとんど破壊されていた。数少ない無事な扉には、開閉ハンドルが生きていた。肩が痛い。息が切れる。四肢を覆う
きみは神さまになれるんだ、と、そう言われたのを覚えている。
うそだ。そんなものはうそだ。
少なくとも、みかんが知っている神さまは、こんなことをするものじゃない。
駆け下りる。駆け下りる。垂直距離で二百メートル。地下駐車場区の奥深く、非常発電設備──つまり今となっては唯一の電源設備正面。バリケードがわりに使われた乗用車の山、燃えるガソリンとゴム、山をなすハイドラの肉の山の悪臭は、胸が悪くなるほどだった。
「
声を張り上げる。黒煙に咳き込む。
かきわける。血と、緑の体液と、くろい油と煤に塗れて。
「返事をしてください、鎧人さんッ……」
「みかんちゃん」
眼を見張る。立ち止まる。止まってしまった。見てしまった。
「ここに来たってことは、うまくいったんだね」
「鎧人……さん……」
「館内放送が、まっさきにやられてね。上の様子がわからなくて。でも、君と司令のことだから。なんとかする、と信じてたよ」
みかんの目線に気づいて、鎧人は苦笑する。
「ああ。最初に右がやられてね。両利きでよかったよ」
「そういう……そういう問題じゃないですよッ!」
一瞬躊躇して、重い両手で、ああ、傷つけてしまうかもしれない。
みかんは、鎧人に触れた。
肉色の触手が、みかんの手を這い上り、絡みつき、顎を撫でる。
「そういう……問題じゃッ……」
「だめだ。みかんちゃん」
鎧人が、苦しげに歯を見せた。
「せっかく耐えたのに、君を襲っちゃ本末転倒だろ」
その右腕から触手が伸びていた。右腕そのものが、蠢く肉の触手に変わっていた。
「それで。君がここへ来たってことは、うまくいったんだね?」
躊躇は、隠せなかったと思う。みんな死んだ。それに。
「はい」
「それなら、よかった。洋画のヒーローみたいなことをした甲斐があったよ」
ひと呼吸ほど、ほんとうに穏やかな微笑を見せて。
鎧人はひどく、ばつの悪そうな顔した。
「ひとつ、みかんちゃんにお願いがある」
「……はい」
耳鳴りがしていた。心臓の音が大きく響く。
汗と血と埃に塗れた肌、なにもかも、いやに気持ちが悪かった。
「ぼくも、
「ッ!」
それは。みかんにとって、もっとも聞きたくない願いだった。
「無理なら、悪いけど、殺してくれてもいい。自分で片付けようにも、弾切れでね。今更、ハイドラにはなりたくない」
みかんは俯いた。答えない。答えられない。
「ハイドラになってでも浮気したら、たぶん
鎧人は笑ってみせた。頬に這い回る肉触手の感触が、遠く感じる。
みかんは、親友の困ったような笑顔を思い出す。
──やっと、告白できたのにね。
どうにか、拳をつくった。
「ありがとう、みかんちゃん」
鎧人は目をつむって、大きく息を吐く。みかんは手を伸ばし、鎧人の頬に触れた。
「私と一緒に、戦ってください」
「ああ。ぼくも、一緒に連れていってくれ」
答えと同時に、右腕の肉触手が金色の結晶と化し、砕け散った。
あとは迅速だ。金色の結晶体が、鎧人の肌をやぶって、あるいは降り積もるように実体化する。またたきほどの間に全身を覆い、黄金の結晶塊ができあがった。
鎧人の姿は、もうみえない。
みかんは胸元を抑える。
純粋な、祈りの想いだった。
それはひとつではない。幾万、億にも届かんとする純粋な祈りが、いま、みかんに届けられていた。地球上に残った人類の、八割にも及ぶその声が。
全世界同時中継されたみかんの呼びかけは、絶望に瀕した人類に、まさに英雄の声として届き、受け入れられたのだ。
第三階梯に達した胸の
みかんは、ぶあついコンクリート越しに空を見上げた。遠い場所にいる人を思う。
──ごめんね、
一筋の涙が流れた。涙はすでに、銀色の砂にかわっていた。
それが、本郷みかんがむかし、人間であったころの最後の記憶だ。
世界を永遠の黄金に沈めて、最後には死にそこねた、わるい女神の最初の記憶。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
本郷みかんは立ち尽くしている。ハリオは、ひとつ頷いた。
「いいですね」
実際、全力で抵抗されたならば、相応に手間取ることになったろう。
暴力は好むところではない。これは偽らざる本心だった。
この
世界は本来「対話」と秩序にあるものであり、「暴力」と混沌は
今もなお、
最小限の暴力で排することに失敗した以上、受け容れこそは最上の結果だ。
「覚悟は決まりましたか」
「ひとつだけ、確認させてください」
本郷みかんは顔をあげる。常人に近い標準的「騙るもの」だ。表情は読みやすい。主張の強い眉が下がり、今にも、泣き出す寸前のように見えた。
目前に死を見ているひととして標準的な反応だ。ハリオは明らかに好感を抱いた。なすべきことのため、己を
愛すべき人柄だ。それを、排さねばならないことが惜しかった。
「私が死んだほうが、この世界のためになるんですよね」
「ええ。少なくとも、私がそう判断しています。誓っても良い」
ハリオは頷き、胸元の大徽章に指先で触れた。見るべきでないものを見る異眼と、あるべきでないものを
その
本郷みかんは大きく息を吸い、吐いた。目を瞑る。震えてはいないようだった。
胸元に手指を組んだそのすがたは、祈りをささげるのにも似ていた。
「あなたに敬意を。本郷みかんさん」
人体を殺し、胸にある源を破壊する。確実に、迅速に済ませるべきだ。
ハリオは
つまり、
「ちょぉっと待ったあ!」
思い切り張り上げたがため裏返りきった、胴間声が割り込んだ。
ぎょっとした様子で、本郷みかんが目をあける。
その視線と、声の源を追って、ハリオは振り向いた。
「その執行! 異議あり! ちょっと待ってもらいましょうか!」
「えッ、ひ、ヒメ、さんッ!?」
ハリオは眉を顰めた。直接面識はないにしろ、知らぬわけもない顔。
髪の毛を振り乱し荒い息を吐く、無尽宮公社の主がそこにいた。
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