第18話 そのとき、広間入口
エイジローは視線をめぐらせた。ごく、穏やかな風景だった。厳しい封鎖命令が下っているとは、とても思えないほどだ。実際、ほとんどの住人、いますぐ街を出入りする用のない住人たちにとっては、ハリオの出した戒厳令も遠い話だし、この広場に剣呑な執行者が居座っていることも他人事だろう。偽足越しに感じる周囲の振動も、行き交う迷宮山師や搬入業者、あるいは
――なんでこんなところにいるんだ、こいつは。
場所もタイミングも、あまりに巡り合わせが悪い。幸いまだ、ハリオは嗅ぎつけていないようではあった。どれくらいまで近づけば感づかれるか、それを確認するだけの無駄な勇気を、エイジローは持ち合わせていない。考えたくはないが、自分の感覚に照らすなら、下手をしたら広間に踏み込んだだけで察知されかねない。
しびれを切らしたのか、棒立ちのみかんを押しのけて、身なりのいい娘がひとり、出てくる。お嬢様、とわめく悲鳴が聞こえた。旅行者か何かだろう。どうにかからだを引き抜いた娘は、エイジローを見て、ぎょっとした様子で立ちすくむ。この反応は慣れたものではあった。見た目のおかしさには、嫌というほどの自覚がある。
「みかん。おい、聞こえてるか?」
「あ、あの、エイジローさん!」
ほとんど被せるような勢いで発言がかぶり、一瞬の沈黙が降りる。
「ごめんなさい、何も言わずに上に戻ってくださいッ」
「いや、それはこっちの台詞なんだが、まあ戻るのはそうだな」
行くぞ、とみかんの手を引こうとした偽足を、丁寧に解かれた。
「どうした?」
「だめなんです。その……ええと、私、行かなきゃいけなくてッ」
「お前なあ本郷、来たばっかでどこに行くってんだ」
足元から見上げる単眼と、みかんの視線がぶつかる。
ごく真剣な表情だった。泣きそうな表情だった。実際、涙ぐんでいた。
みかんは息を吸う。吸って、いきなり、ばん、と両手で頬を叩いた。
「おい」
「あの! 聞いてください、信じられないかもしれないですけどッ」
こぶしを固めて、吠えるようにまくし立てる。こわいろも表情も真摯そのもので、目を引かずにはいられないちからがある。いかにもそれは、英雄らしいものだった。
「私と一緒に、ハイドラの女王が――」
正直に言おう。エイジローは気を取られていた。ついでにいえば、広間の奥で
とくに、意識を取られている相手が何かを言い出そうとする瞬間であるならば。
路地の横でじっと控えていた娘が、
――我に従え。
あらゆる物体の振動を介さない、声ならぬ声だった。単眼と肉塊へ直接作用するそのひびきは、特殊なエイジローの平衡覚をして、機能不全を起こさせた。その声は、五感に相当する感覚を埋め尽くす。単眼の視野すらも、声の情報に専有される。
エイジローにとって、おぼえのある感覚だった。
この百万の庭では、ありえないはずだったもの。つまりこれは。
「女王」
形成していた発声偽足を震わせたが、声がつくれたかはわからなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
そのとき何が起きたのか。全体像を見えてはいたが、グラトにとってその大方が、理解のおよばない代物だった。騙るもの同士のやりとりでは、時折あることだ。多くはここまで、殺伐とした内容ではないのだが。
魔物にしか見えない「騙るもの」のエイジローにカララが触れるなり、その単眼がぐるりと白目をむいた。
え、と、状況の落差に弛緩したみかんが間抜けな声を漏らすのとほとんど同時に、エイジローがひとつだけ、言葉を発した。
女王。
みかんが、カララを見た。目線が絡む。カララが薄く笑った。エイジローの触手を手繰り寄せる。僅かな沈黙、みかんが牙を剥いた。それは人間の、常人の、愛らしい娘に使う表現ではないが、はっきりとした怒りのいろを浮かべ食いしばった歯を晒すそれを、他になんと呼んだらいいか、グラトは知らない。
みかんが吠えた。周囲の視線が集中する。グラトは一瞬迷った。カララを連れて、ここから逃げられるか。その逡巡を事態は置き去りにし、連続して動いた。
声の勢いのまま、みかんが踏み出す。踏み出した瞬間に、
額に垂れ落ちる一筋の血。
歯を剥き、食いしばり、身体を起こし、血を吐き捨てて、ことばを口にする。
血泡でぶれた声だったが、グラトには確かに、このように聞こえた。
明日また、会えますように。
再度、
今度はカララが吹き飛ばされる番だった。金の激突に殴り飛ばされた
光が消えたあと、エイジローの傍ら、みかんの姿があった。
先程までの濃緑の衣装とはちがう。黒い肌着、急所と四肢だけを覆う黄金の装甲。無手だ。戦装束とも思えない奇妙な姿だが、帯びる戦意は疑いようもない。
「エイジローさんッ! 大丈夫ですかッ!」
大きく、はっきりとした、けれど表情に似合わない、悲鳴にも似た声だった。
エイジローは答えない。単眼を白く変色させたまま、偽足触手は動かない。
人混みが
「やはり
「女王ッ! エイジローさんに何をしたッ!」
「名は呼ぼうとはせぬか。
グラトは叫び出したい気分だった。何をやっているのだあの子らは。周囲は遠巻きに見ているだけで、野次馬と逃げ出すもののどちらもあれど、取り押さえようという動きは見えない。幸いというべきか、「騙るもの」の迷宮山師どうしの喧嘩、くらいに見られているのだろう。ただ、ここは隧道広間だ。じきに警備か、もっと悪いものが飛んでくる。止めねばならない、だがどうやって?
「知った、ことかあッ!」
みかんが踏み込む。
粗い砂を擦り合わせるような異音が、拳の先から継続する。
「ぬ、う……」
「ここでッ! 今度こそッ! 終わらせてやるッ!」
一声ごと、口元から赤い血がしたたる。
兇猛なみかんの相貌へ、カララは口元を苦しげに歪めたまま笑みを返した。
「できるものか、愚か者が!」
両手を合わせ、花のようにひらき、突き出す。
先程よりさらに強い玻璃の激突音。
みかんとカララの双方が、正反対の方向へ弾き飛ばされた。
石畳に転がる。バウンドする。
目では追えるが、ついていける気はまるでしない。
派手な戦いだ。どうも、至近距離での組み合いなどは無縁らしい。
だとすると、双方この障害物の並ぶ広間で跳ね回ることになり、
――人混みに紛れてかっさらうしかないですが、できますかそれ。
どうもない。あてが外れた以上、カララを連れて逃げねばならない。
グラトは迂回して広間の中へ出るべく、横合いの
そのときだった。
「それまでです。いいですか」
聞き覚えのある、そしていまもっとも聞きたくない、よく通る声だった。
若草色の外套。胸元には青鉄の大徽章。
「
「剪刀騎士さん! ごめんなさい、その……その子、女王は私の責任でッ」
みかんが、石畳に身を起こす。膝立ちになる。
カララの姿は
ハリオはみかんの姿を、値踏みするように見ていた。ひとつ、頷いた。
「私が、倒しきれなくて。それで、この世界にまで、迷惑を……ッ」
「なるほど。貴方、お名前を伺えますか」
「あ、はい、みかん、本郷みかんですッ」
「そうですか。本郷みかんさん。確かに覚えておきます」
ハリオは繰り返すと、膝立ちのみかんへ無造作に近づいた。
ばつの悪そうな顔をしたみかんが、そのまま立ち上がろうとする。
鉄の鳴る音がひとつ。
隧道広間の石畳に、血の花が咲いた。
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