冴えないヒロインのスケッチの描きかた ~鴨川デルタ~

 京都合宿三日目。

 まだ日も完全に昇りきっていない早朝。


 英梨々にもらった風邪薬のおかげだろうか、だいぶ身体が軽くなっていた。あたしも見るのが初めてのその風邪薬は、見るからに怪しく……というわけでは決してないはずなんだけど、英梨々が言うには『あたしの主治医が調合してくれた薬。真由にも効くはずだから』と。なにを根拠に英梨々はあたしにも効くはずと判断したかは知らないけど、ひとまず英梨々のその純粋な笑顔に騙されて、薬を戴くことにした。

 霞さんが用意した薬は素直に信用できないけど、英梨々の薬なら大丈夫だよね……

 きっと、たぶん……。


 朝、五時に目が覚めると、あたしは早速体温を測った。

 三十六度八分。平熱ではあるけど、決して無理はできない。


 だからといって、せっかくの京都だもん。本当はもう少しゆっくり堪能したい。

 多分、体力的にはもう大丈夫だよね。

 風邪とはいえ、いつも寝不足のあたしが、恐らく一晩で三日分くらいは寝ている計算なんだもん。あたしが普段何時間くらい寝ていて、今日だけは何時間寝たとか、そういう詳しいことは書かないことにしておくけど。


 あたしはスケッチブックを片手に、同じ部屋で寝ていた、英梨々とエチカ、それと恵ちゃんを起こさないように、そっと布団から出た。


 ☆ ☆ ☆


 宿から出ると、まだ車の通りも少ない大通りを西に向かって進んでいた。

 さすがに少し肌寒い。あたしは寒さに負けじと白いコートと毛糸の手袋を頼りに、しっかりと防寒していた。裾の長いズボンにしておいて正解だったな。それを改めて感じさせるほどの寒さだった。


 まだ朝日は昇っていない。橙色の街灯を頼りに、京の街を西へ向かって歩く。

 しばらく歩き続けると南北に伸びた大通りに辿り着いた。信号の色が赤から青になると、あたしは少しだけ足早に、その横断歩道を渡る。すると、信号の先に橋が見えてきた。だけどあたしはその橋を渡らずに、その脇にぽつんとあった階段を降りていく。


 鴨川。最近ではこの場所を、鴨川デルタと呼んでるそうだ。

 ドラマとかアニメとかでよく見かける光景だよね。あたしはそんな静かな光景を前に腰を下ろし、スケッチブックを広げた。


 少しは合宿らしいことしなくては。

 あたしは溜まっている原稿を少しでも先に進めなくちゃね。


 今ならどんな絵だって受け止めて、描くことができると思うから――


 まずはその背景に、ここから見える鴨川の風景を簡単に描く。

 ううん。あたしが描くのはこんな薄暗い朝ではなくて、もっと賑やかな昼間の風景。静かな場所に集う沢山の人の想いを、この一枚の絵に、ささっと収めてしまおう。


 そしてその正面には、見た目は二十歳くらいの大人びた少女。

 女子高生だった頃の、ほんの少しだけ幼かった姿はもうここにはなく、あの頃に比べたらわずかばかり身体も心も成長している。……ううん、あくまでもそのつもり。

 ただ背伸びをしているだけかもしれない。だって、いつまでもあの頃のわたしではいられないから。その少女の瞳からは、その決意だけが現れていた。

 本当はもう泣きたくて泣きたくて、どうしようもないほど辛いのに、だけどここで涙を他の人に見せるわけにはいかない。

 特に、瑠璃と真唯にはね――


 そんな強い想いを彼女の瞳に込めると、あたしは最後にその少女を象徴するふわふわのショートボブを描いた。

 ふふっ。強がっちゃって。

 本当の姿を決して見せようとしない、あたしに言わすと超頑固な女の子。フラットな笑顔で本心を包み隠して、周りにいる主人公や他のヒロインたちをその魅力で翻弄するんだ。


「ふふっ。真由さんらしい絵だね?」


 あたしらしい……か。

 あたしも泣いてばかりはいられないもんね。こんな強気の彼女のように――

 だけどこの絵はね、そんないつもの仕返しだから!


 …………え?


「め、恵ちゃん!??」


 まるでつい先程まであたしが描いていた絵から飛び出してきたかのように、その女の子はあたしのすぐ後ろに立っていたんだ。いつものようにフラットの顔で、自慢のショートボブをふわりと揺らせながら。

 てゆか、ステルス性能高過ぎでしょ!!


 ☆ ☆ ☆


「真由さん風邪で大人しくしてたと思ったのに、急に部屋を飛び出すんだもん。もっと安静にしてなきゃダメじゃない。」


 手のかかる子供をあやす母親のように、恵ちゃんはあたしにそう注意してくるんだ。

 なんだかそれはこなれているかのような口振りで、あたしの他にも存在する手の掛かる友人を彷彿させた。それが誰かとは敢えて書かないでおくけれど。


「ごめん恵ちゃん。だけどあたし諸々の原稿が溜まってて……」

「真由さんだったらそれくらいなんとかできるよね? だから今は寝ていてほしいんだけどなぁ~」

「恵ちゃん? その心配は嬉しいけど、あたしだったらとかそんな超人みたいに扱うのやめてもらえるかな?」


 恵ちゃんはくすくすと笑っている。その笑顔は、あたしのもやっとした心を吹き飛ばす。ふとあたしは笑みを抑えきれなくなった。

 笑っていいのかな? それでいいのかな?

 本当はそればかし考えていたはずなんだけど。


「恵ちゃん、あたしに普通に話しかけてくるんだね?」


 だって恵ちゃん、今のあたしのことをどう思っているのか、少し不安だったから。

 だけど恵ちゃんはずっと笑みを浮かべたままだ。辺りは薄暗くて、その表情の真理までは影にすっぽりと覆われてしまっているけれど。


「ねぇ真由さん。ひとつ、聞いていいかな?」

「え、な~に?」


 あたしの回答を保留にしたまま、恵ちゃんは逆に質問を投げようとしている。

 あたしから顔を背けたまま。だけどそんな横顔の瞳から伺えるのは、もう迷いなどないと訴えるような、そんな強気な心さえ伺える。


「恋って、したことある?」


 そして恵ちゃんは、こんな素っ頓狂なことを聞いてくるんだ。


「……ねぇ恵ちゃん? それって恵ちゃんの本当に聞きたいことなの?」


 あたしは少し意地悪をして、そう返してみるんだ。


「ふふっ。どうだろ?」


 そして恵ちゃんの返事も、やはり意地悪だった。


「恋かぁ~。あたし、基本的にはオタク女子だから、あまりそういうのとは無縁なはずなんだけどねぇ~」

「真由さん嘘つきだ~。倫也君とのあの会話、あれはただのオタク女子とは思えなかったよ?」

「ちょっと待って恵ちゃん! それって一体いつどこのどの場面での会話のこと言ってる!??」


 が、恵ちゃんはそれを答えようとせず、ただ笑って誤魔化してみせる。

 本当にずるい。そうやって、聞きたいこともうまく口に出さずに、あたしをからかってくるんだから。


「あたしは、タキ君のことが好きだよ。」


 だから仕返し。意地悪ばかりを言う恵ちゃんにはピンポイントでこう応えてみる。


「うん知ってる。でもそれ、とてもただのオタク女子の発言とは思えないよね。」

「うん。そうかも。でもあいつって、十分すぎるほどのオタク男子だから、そこは許容範囲じゃないかな~?」

「え~。それじゃあまるで、仮にもオタクじゃないはずのわたしが許容範囲外をただ突っ走る、ただの痛い女の子みたいじゃん!!」

「え、実際にそうなんじゃないの?」


 そして追い打ちをかけるように、これでもかとばかりに意地悪してやるんだから。


「ふふっ。『実際』……か。……うん、そうかもね。」


 恵ちゃんはややふてくされたような顔を見せ、そのまま少し黙ってしまった。


 その時、恵ちゃんの顔がころっと変わったように見えた。ううん。まだ、笑っているのかもしれないけど、それ以外の面持ちも少なからず表に出てきたんだ。

 恵ちゃんは今、一生懸命笑ってるつもりなのかもしれない。でも、残念ながらそうには見えなかった。

 さっきまでの強気な心も失われ、いつものお得意のフラットな顔もできないまま、ただやるせない表情をしているんだ。

 恵ちゃんはまるでそれをあたしから隠そうとはしているようだけど……。


「ねぇ恵ちゃん?」

「ん〜……?」

「あたしがタキ君と今、付き合ってることだけど……」


 そしてあたしはこのタイミングで、いよいよこの話を切り出した。


「うーん…………?」


 恵ちゃんは弱々しく返事をする。

 あたしは恵ちゃんのその声を聞いてもう一度、改めて自分が放つべき言葉を再確認した。


「タキ君はあたしのもの。今の恵ちゃんには勿体ないもん。」

「っ…………」

「だから返してあげないよ~!」


 あたしは舌をぺろっと出して、恵ちゃんを挑発する。


「…………うん。」


 ところが恵ちゃんは少し安心したかのような返事をしてくるんだ。

 まるであたしの挑発など、ものともしないように。


 本当にどうしてしまったんだろう?

 今ここにいるのは確かに恵ちゃんではあるのだけど、あたしの知るメインヒロインの煌めくような姿は、どこにもない。

 何かに掴まれ、何かに躓いて、何かに立ち止まって……。

 ただ後ろ向きのその姿は、ひたすらにうじうじしていて、見ていてじれったくもなってくる。


「ねぇ……本当にそれでいいの?」

「真由さん……」


 すると恵ちゃんには珍しく弱々しい声で、そっとあたしに話しかけてきた。

 あたしはそれを、今度はちゃんと受け止めてあげる。


「どうしたの? 恵ちゃん。」

「大人になるって、怖いね……」


 が、突然恵ちゃんは、そんなことを言ってくるんだ。

 あたしには一瞬何を言っているのかわからなかったけど、ふと頭の中に文章の一節が思い浮かんだ。


 ~巡璃、二十歳の誕生日おめでとう~


 そう、これは霞さんが書いた短編集第三話『巡璃』編のラストシーン。


 ひとつの恋に行き詰まってしまった巡璃は、思わず立ち止まってしまう。

 そこにひょっこり現れたのは、天真爛漫な性格の持ち主、真唯。

 巡璃は真唯に導かれるように、自分を改めて見つめ直す。

 どうして彼が好きだったのか、彼じゃなきゃ駄目だったのか、振り返るんだ。


 ――これは設定こそ巡璃と言いながらも、霞さんは明らかに恵ちゃんを意識して描いていた。

 この恵ちゃんに対する道標とも思える小説、霞さんは何を思って書いたのだろう?

 あたしにはそれが、どうしてもやるせないものに思えてきたんだ。

 だって、霞さんだって――


「大人か~。あたしはそういうの、あまり意識したことないけどね。」

「だって真由さんは最初から大人だったもん。わたしがどんなに手を伸ばしても届かないくらいに。」

「ふふっ。……でも、それはどうかな?」


 あたしは笑ってごまかした。


 でもね、それは違うよ。恵ちゃん。

 最初から大人の人なんて、この世にいるわけないじゃん。


 あたしは……恵ちゃんに見られないように、手元にあったスケッチブックを一枚一枚めくり始めた。

 ここにあるスケッチブックはあくまで落書き用。仕事をするときのあたしはタブレットに直接描く。そんなこともあってこのスケッチブックには、今年の夏の終わり頃の絵がまだ残っていた。

 描くことをやめようかとも思ったあの頃……。

 まだあれから二ヶ月くらいしか経っていないなんて、嘘のようだ。


 紅坂先生に徹底的にダメ出しされて、北田さんには突然告白されて、

 鈴城さんはそんなどうしようもないあたしを救ってくれて

 霞さんと『純情ヘクトパスカル』のアニメ化を共に喜び、

 英梨々にはタキ君に対する今の想いを告げられて、

 そしてあたしは、あいつと……。


 そんな、あたしにとっては激動の日々の記録が日記のように、このスケッチブックにしっかり残されていた。

 本当に、夢のように儚くて、ちょっぴり切ない思い出の数々。

 あたしはそれを胸に秘めて、今の絵を一枚一枚、描いている。


 だって、こんな恋愛を知らなければ、あたし嵯峨野文雄は、今のあたしではなかったもん。


 ☆ ☆ ☆


「あ、そうだ恵ちゃん。ゲームのシナリオ、昨晩読ませてもらったよ。」


 あたしはふと思い出したように、恵ちゃんにそのことを伝えた。

 だけど恵ちゃんはあたしの隣で寝ているのか、返事はなかった。

 あたしの肩に少しもたれかかり、いつもの綺麗な丸い瞳はきゅっと閉じている。

 そんなにもたれかかると、あたしの風邪、移しちゃうかもしれないのにな。


 ひょっとして、寝ているのではなく、泣いている?

 ふふっ。……そんなの、どっちでもいっか。


「すごく良かった、新しく追加されたゴールデントゥルールート。かおりも、里美も、舞羽も、みんな真剣に恋をして、それでいて友情も壊れることもなく……」


 そう。昨晩英梨々に促されて読んだシナリオには、新しくルートが追加されていたんだ。かおりと朋雄の初々しい恋模様に加え、かおりと里美の友情も綺麗に描かれていた。

 それは明らかに、モデルである英梨々と恵ちゃんの関係そのもので、華やかで、それでいて切なくて……。正直言うと、あたしは羨ましい限りだったけど、その追加されたルートは、ゲームの面白みをさらに強くしていたんだ。


 もちろんあたしの作業ボリュームは当然増えるけど…………

 ……ううん。この程度ならなんとかなる。

 それよりも今は英梨々と恵ちゃんとで、このゲームを作り上げたいと思うんだ。


 あたしがそのシナリオを読んでる間、隣りにいた英梨々はやはり機嫌悪そうに……

 ……でも本当はそんなことなくて、そのシナリオが想像以上に気に入ってしまって、それを素直に受け止められなかっただけだよね。本当に器用じゃないんだから……。


「そうよ恵。あんたあたしが求めていたゲームのシナリオ、ちゃんと書けたじゃん!」


 そうそう、こんな風に…………


 ……って、えっ!???


「英梨々〜!??」


 ようやく昇ってきた朝日を反射し、鴨川の流れに金髪ツインテールが映し出された。振り向くとそこには、英梨々とエチカがいたんだ。


「真由っ! あんた風邪ひいてるんだからもっと大人しく寝てなきゃダメでしょ!! あたしそんな風に真由を育てた覚えないわよっ!!」

「だから英梨々に育てられた記憶なんて一ミリもないっていつも言ってるでしょ!」


 ……く、くしゅん


「ほら〜嵯峨野ちゃん〜? 英梨々の言うとおり大人しくしてなくちゃ〜」


 英梨々のきゃんきゃん声に対抗して声を出したら、つい嚔が出てしまった。やっぱしまだ治りきっていないのかもしれないね。エチカの言うとおり、そろそろ宿に戻らなくては。


「ねぇ英梨々、エチカ? いつからそこにいたの?」

「ずっとここにいたわよ! 突然恵が部屋を出ていったから、慌てて追いかけてきたんじゃない。」

「てことは特にあたしを追いかけてきたわけでもないし、あたしと恵ちゃんの会話もほとんど最初から聞いてたってわけだね。今更ながらよ〜くわかったよ……」


 ちなみに恵ちゃんは、まだあたしにもたれかかって、一向に目を開こうとしないんだ。恵ちゃん、ほとんどの体重をあたしに委ねてくるから、そろそろあたしも疲れてきたけど。

 でも、もう少しだけ――


「英梨々? ……これでいい……んだよね?」


 少なくとも、あたしと恵ちゃんの会話を、英梨々は黙って聞いてくれていた。

 あたしは英梨々のことも気づかなかったし、恵ちゃんも……

 ……ううん、恵ちゃんはひょっとすると気づいていたのかもしれないけど。


「さぁ〜……なんのことかしら? それより真由、風邪ひく前にとっとと宿戻るわよ。ほら、恵も!」

「だからあたしはもうとっくにひいて……くしゅん!!」


 って、それを強がって反発するのもおかしな話だね。本当に早く戻ろっと。


 ……ほら、恵ちゃんも早く宿にもどろ?


 あたしは隣でぺたんと座る恵ちゃんの肩にそっと手を当てる。

 それに気づいたのか、恵ちゃんもゆっくりと重い瞼を開き、あたしの手を借りながら、立ち上がった。川に映る影が徐々に大きくなっていくのを見ながら、あたしは地べたに置いてあったスケッチブックを手に取った。


 もうそろそろこのスケッチブックも最後のページだね。

 それを描きあげる頃には、恵ちゃんも……。


 つい先程まで微かに聴こえていた恵ちゃんのすすり泣く声は、もう耳に届いてこなかった。

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