冴えないラストシーンの描きかた ~祇園白川~
ここは祇園にある静かな喫茶店。
耳を澄ませば、店のすぐ傍を流れる白川の水の流れが聞こえてきそうな気がした。今朝からずっと体調の悪かったあたしは、この静寂な空気を吸って少し穏やかな気分になる。
ひょっとして、悪いのは体調だけではないかもしれないね。
なぜなら今日のあたしは、自分が自分ではないような、そんな気がしているから。
「嵯峨野さん。今朝からずっと具合悪そうだけど、大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫。……ありがとう。」
あたしを励ましてくれるタキ君の優しい声を聞くと、ますますおかしな気分になる。
それはもはや体調のせいとかではなくて――
「あら嵯峨野さん。さっきまで倫理君に『嵯峨野さんって呼ぶな!』とか息巻いてたくせに、その威勢の良さはどこ行ってしまったのかしら?」
あ、もうそんなことまで忘れてしまってる……
でも霞さんにそう指摘されても、今のあたしはもう反論する元気すら残っていない。
「今は許してあげますよ。だってここは、不死川の打ち合わせの場所だもん。」
そう。ここにいるのは、不死川書店関係のメンバーのみ。
あたしの横にタキ君がいて、その向かいに霞さん。そして霞さんの横には北田さんが座った。本来ならクリエイターとその担当者が向かい合って座るべきな気もしたけど、体調の悪いあたしはなす術もないまま、いつの間にか霞さんの取り仕切りでこんな配置になっていたんだ。
「それより、短編集第三話の完結部を書き上げたわ。チェックしてもらえるかしら。」
短編集第三話というのは所謂『叶巡璃』編のこと。昨日までは『加藤恵』編として書かれていたものが、突然『叶巡璃』にすり替わっていたんだよね。
しかもそのクライマックス部分は昨日の時点でまだ空白だった。つまり、メールで送られてきた今回の原稿は、あの後に霞さんが宿で書き上げた続きの部分ということになる。
「あ、それなら先ほど読ませていただきました。」
ぼおっとノートPCを起動しようとしていると、低い男性の声があたしの耳に響く。
「さすが北田さん。仕事が早いわね。」
「いや、仕事ですから……」
「ほんとね。どこか心ここにあらずで現を抜かしている絵描きとは訳が違うわ。」
「霞さん? あたしをこういう状況に追い込んだのは、昨日打ち合わせと称してあたしにお酒を飲ませた霞さんだと思うんですけど、そう思うのはあたしの記憶が間違っているからでしょうか?」
さすがに心外だ。今度こそなんとか霞さんに反論してみせる。
あたしだって昨日あの後体調が優れないながらも必死に霞さんの原稿を読んでいた。その結果が今のこの有り様だというのに……
なんとか愚痴をこぼしてはみたものの、それでは話が進まない。頭痛が激しくなるのを我慢しつつ、起動したPCのメールボックスに届いていた霞さんの原稿を、ゆっくり読み始めた。
☆ ☆ ☆
「あの~…………」
「……………………」
「あの~……嵯峨野さん?」
「ごめんタキ君。今霞さんの原稿に集中してるから少し待っててくれるかな?」
「……う、うん。」
原稿に集中している途中で話しかけられたので、あたしはタキ君の顔を睨んだ。
ところがそんな自分にどこか違和感を感じるまで、ほんの数秒とかからなかった。その違和感の正体が何であるのか、わからないままではあるけれど。
「……ところで、なにか用?」
あたしは自分自身の行動に対して、頭にクエッションマークを浮かべながら、タキ君の顔をちらりと確認する。タキ君は確かに怪訝そうな顔で、あたしの瞳をぼんやりと見つめていた。
ううん……今の言葉だってそうだ。なにかおかしい。
「いや、霞さんの原稿、俺のメールボックスには届いてないのだけど……」
「知らないわよ。てゆうかあんた短編集の担当じゃないはずだし、そのせいじゃないの?」
「うん。そうだと思うけど…………ところで嵯峨野さん。急にまた俺に冷たいと感じるのは気のせい?」
えっ…………。
あたしはタキ君からそう指摘を受けて、ふと我に返った。
「あら嵯峨野さん。急にどうしたのかしら? あなた、倫理君の彼女になったはずなのに、またいつものよそよそしさとか。これでは元の木阿弥とか、笑ってしまうわね。」
そして、ここぞとばかりに霞さんにつっこまれる。だけど、なんで二人からこうつっこまれているのか、自分でも全然わからないほどだった。
いや、そうではなくて、わからないのはむしろあたし自身の態度の方――
もうなにがなんなのだろう?
あたしの目は虚ろになりながら、なんとか霞さんの原稿を読み進めた。
☆ ☆ ☆
短編集第三話『叶巡璃』編。転の場面、そしてラストへ――
彼氏である主人公と幸せな日々を暮らしていたはずの巡璃は、突然その彼氏に別れを告げた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう……?
その答えは巡璃自身も理解できなくて、その別れの言葉はただ自然と漏れたものだった。
彼は、巡璃の従姉妹である瑠璃と歩き始める。
遠くからそんな二人を眺める巡璃は、自分にできなかったことについて考え始めた。
わたしは彼といて、本当に楽しかったのだろうか?
彼はわたしといて、本当に幸せだったのだろうか?
それを考え始めると、ただ胸が痛くなり、その度に涙が出そうになった。
だけど、巡璃は泣かなかった。
ここで泣いてしまったら、もう二度と彼との時間は取り戻せないと思ったから。
そんな巡璃の前に、一人の女の子が現れた。
彼女の名前は真唯。『恋するメトロノーム』から三年後の真唯だった。
巡璃から見た真唯は、ただきらきら輝いていて、憧れの象徴。
天真爛漫な気丈を見せる真唯は、巡璃が目指すはずだったヒロインの姿そのもの。
真唯の笑顔に、巡璃は彼が好きだった頃の自分を思い出していく。
自分がまだ泣かずにいられるのも、真唯のおかげかもしれない。
巡璃はいつしかそんな風に考えるようになっていた。
そんなある日、事件は起こった。
いつものように主人公の顔を遠くからぼんやり眺めていた巡璃。
ただ、そのすぐ横を歩く女の子が、瑠璃ではないことに気づいてしまった。
あれは…………真唯?
思わず真唯と彼に近づく巡璃。
なんで瑠璃と歩いている彼は何とも思わなかったのに、真唯だとダメなの?
そんなことを考えながら、巡璃は二人に近づいていった。
こんな嫉妬ばかりじゃ、メインヒロイン失格だよね――
彼との距離が残りほんの数メートルになった瞬間、彼は巡璃の姿に気づく。
彼はわたしのことをどんな風に見ているのだろう。
きっと最低の女だって、そう思ってるんだろうな。
ところが彼は……彼の方から巡璃に近づいてくる。
そして、巡璃に小箱を手渡した。
白い花柄模様の包装紙に包まれた、やっと掌に乗るくらいの小さな箱。
それを巡璃に手渡すと、彼はこう言ったんだ。
巡璃、二十歳の誕生日おめでとう。
真唯にも祝福されながら、巡璃は思わず涙が出てきたんだ。
☆ ☆ ☆
昨日霞さんがあたしに手渡した原稿、つまりラストシーンがまだ描かれていなかったその原稿は、ちょうど真唯が出てきた場面までだった。
そのお話の続きを、霞さんは恵ちゃんとあたしに委ねてきた。
それからの恵ちゃんとあたしは、霞さんの意図した通りに動いたのか、それを知るのは創造の神である霞さんのみ。でもきっと恵ちゃんから、あたしの行動も報告されたのかもしれない。
……ううん。霞さんのことだ。懲りずにまたどこかに盗聴器が仕掛けてあったのかもしれない。それをどこか……京都のどこかで、恵ちゃんとあたしの会話を盗み聞きしていた可能性もある。
でも、正直そんなことはどうでもよかった。
だって、霞詩子の文章だもん。あたしや恵ちゃんがどうとか、そんなの関係ない。
あたしは思わず笑みをこぼしながら、この原稿を最後まで読んでいたんだ。
「あの~嵯峨……真由さん? そろそろ俺にも原稿を……」
横からタキ君があたしのPCを覗きこむように、霞さんの原稿を催促してくる。そういやタキ君、結局まだ霞さんの原稿を送っていなかったね。一通りその原稿を読み終わった後、あたしはようやくそれに気がついた。
ぱたっ
だけどあたしはそのまま、ノートPCを閉じてしまった。
「え~!? ちょっと!! 俺には原稿読ませてくれないんですか!?」
「だってこの原稿、霞詩子の短編集のシナリオだよ? タキ君、担当じゃないよね?」
「いやだってさっきまで、嵯……真由さんと二人で、嵐山で取材してたじゃん!!」
「あれはタキ君が担当する『純情ヘクトパスカル』の取材だったよね? ほら、今度アンジェ達が京都へ遊びに行くってプロットにあったし!」
あたしは舌をペロッと出し、タキ君を軽くあしらった。
その瞬間、霞さんの顔が『そんなプロット知らない!』も冷たく固まったように見えたけど、それは霞さんに対する貸し。……というより、これまでの京都の出来事について、そのままそっくりお返ししてやるんだ。
あたしは今、京都を楽しんでいる。
だからその絵を何枚だって描いてみせるから――
「嵯峨野さん。その様子だとあなたはこの原稿で問題なしと判断したということね?」
問題なし…………か。
ふふっ。そうだね……。
あたしの胸にこの原稿の巡璃ちゃんの想いが、すっと染み込んでいくのを感じた。
それは冷たい冬の夜空に優しい彼の温もりが、そこにあるかのようで――
でも、巡璃ちゃんだって泣いてない。
ううん。恵ちゃんはそういう子だよね。
いつもフラットを装いながら、大切なものは胸の中に閉まってある。
「うん。あたしはこれでいいよ。霞詩子先生!」
……だから、あたしも泣かないよ。
あたしは残りの力を振り絞って、笑った顔を霞さんとタキくんに見せるんだ。
向かいに座る北田さんは、不思議そうな顔であたしの顔を伺っている。
ねぇ。あたしって今、そんなにおかしな顔をしているかな。
今のあたしは、北田さんの気持ちに応えられる余裕なんて全然ない。
それが余裕から来るものなのかは、よくわからないけどね。
横に座るタキ君は、まだがっかりした顔をしてあたしの顔をちらちらと見ていた。
そりゃそうだよね。だってあんたは霞詩子の信者だもん。
だからこんなに手の届く場所に霞詩子の最新原稿があるのだとしたら、なんとかそこまで手を伸ばして、その原稿を読みたいと思うに決まっている。だって、もし仮にあたしが今のタキくんと同じ立場だったら、間違えなくそう願うはずだから。
でもね。タキ君と霞さんの距離は、もうそんな手の届く距離じゃないんだよ。
タキ君がこれからもずっとゲームのシナリオを書き続けたとしても、霞詩子の担当編集をしていたとしても……どんなにクリエイターの世界にのめり込んだとしても、もう霞さんとの距離はきっと――
あたしだって、霞さんも英梨々も応援したいよ。ううん。タキ君も恵ちゃんも。
だって、みんな大好きだもん。みんな幸せになってほしいもん。
だけど、だけどさ――
あたしは手元にあったグラスを手に取り、そっと水に口を付けた。
その水はお酒でもなければ天然水でもない。
ただ、味のしないその水をきゅっと喉に通して、あたしはふっと息を溢した。
……あたしにできることって、結局なんだったのだろう?
みんなの距離を一歩ずつ、縮めること?
……本当にそうなの??
霞さんや英梨々、そしてタキ君や恵ちゃんの互いの距離を縮めることができたかな。
あたしの大好きな人たちの距離を、少しでも縮めることができたかな。
そんなの、綺麗事かもしれない。ないものねだりかもしれない。
タキ君。こんな役立たずなあたしで、本当に――
「タキ君。ごめんね…………」
あたしは最後の力を振り絞って、その言葉をタキ君に――
「え、ちょっと。……ちょっと! 嵯峨野さん!!?」
タキ君の慌てふためく声を聞きながら、あたしの意識はそのまま深い眠りへ落ちていった。
☆ ☆ ☆
暖かい……。ここはどこだろう……?
ふと目覚めると、そこはやや薄暗い八畳ほどの和室。あたしは布団の中にいた。
まだ頭痛が酷いけれど、なんとか起きれるくらいの体力だけは残っている。
「こら真由。無理に動いちゃダメよ!」
声を出してその甲高い声に反応しようとしたけど、そっちの体力はあまり残っていないようだ。
布団の傍にいたのは英梨々だった。英梨々、ずっとあたしのことを……。
「さっき熱を測ったら三十八度一分。あんた、ほんと無理しすぎよ。」
「ごめんね、英梨々……」
そっか。ここは今晩の宿だ。確か、昼間いた喫茶店からそんなに距離はないって言ってたっけ。
時計の針は……ちょうど二十二時くらい。あれからずっと目を覚まさずにいたんだね。
「倫也にも後で御礼言っておきなさいよ。あいつ、真由をおぶってこの宿までやってきたんだから。」
「ふふっ。タキ君を元気づけるつもりが、返って迷惑かけちゃったね……」
「ほんとよ! 真由、どんだけ無理して倫也のこと励まそうとしてたのよ?」
「励ます……か。」
あたしはタキ君を励まそうとしてたのかな?
英梨々はそう言うけど、本当にそうだったのだろうか?
「だけど、あいつのこと好きって気持ちは本当だもん!」
「そんなの改めて言われなくてもわかってるわよ。でも、今日は無茶しすぎ。」
「それはそうかも。」
あたしは小さく笑って、英梨々に返した。
「あ、真由の夕食は宿の人に頼んで、そこに置いてあるから。」
「ありがとう。」
「あと、恵がね……」
「恵ちゃん……?」
そうだ。もう一つの気がかりなこと……。
「恵が、ゲームのシナリオを書き直したから、後で真由にも読んでほしいってさ。」
「てか英梨々。恵ちゃんと仲直りできたの? 朝、喧嘩してなかったっけ。」
英梨々も笑いながら、あたしに言葉を返してくる。
「そんなの心配無用よ。だって、いつものことだもん。」
「そっか……」
あたしもさすがに心配し過ぎかな。
「なんだかこうしていると、あたしたちが出逢った時のようだね。」
「え……?」
「まぁあの時布団で寝てたのは、真由じゃなくてあたしの方だけどね。」
「あ〜。英梨々があたしのベッドを占拠してくれたおかげで、あたしの寝床がなくて途方に暮れてた夜の話だね。」
「うっさい! でも、そのおかげで真由に出逢えたし……」
「まぁ……英梨々に出逢ってから、楽しくはあったかな?」
「そうやって生意気なことばかり言う
「もぅ〜!!!」
もうあれから半年以上が経つんだね。
いろんなことがありすぎて、たった半年というのが不思議なくらいではあるけど。
でも、英梨々とこうして短いながらも時間を共有できてたんだな。
英梨々はくすくす笑っている。
あたしはそんな英梨々を――
「ところで英梨々? あの日の夜のこと、どれだけ記憶に残っているの?」
「う〜ん…………忘れちゃったな〜……」
ふふっ。嘘ばっか。
お
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