嵯峨野文雄の描きかた 〜初夏〜

 あたしはひとり、ペンタブレットに向かって作業を進めていた。


 霞さんと町田さんは差し入れを持ってくると、あたしのイラストを簡単にチェックした後、そのまますぐに帰ってしまった。特に指摘事項はなく、とりあえず頑張ってねとのことだった。

 タキくんも相変わらず一人で自分の部屋に籠もり、ゲームシナリオを書き進めているようだ。そしたら合宿なんていう形にする必要があったのか少し疑問を感じるけど、それでもタキくんはなるべくあたしに負担をかけないよう、集中できる環境を整えてくれて、それだけでも十分にこの合宿の意味はあった気がする。

 自分の部屋に籠もって一人で作業を続けていたら、なかなか集中できないときもあるもんね。一昨日からタキくんの家で作業してるけど、ここだと本当に集中できるんだ。

 ……というよりこの安芸家というこの建物、明らかに合宿慣れしてる???


 今日の夕食は町田さんが置いていったお金で、出前のお寿司が運ばれた。『これなら手もそんなに汚れないでしょ』とタキくんが笑顔で話してたけど、きっとこれも英梨々の合宿中の体験から学んだ手法なのかもしれないね。


 時間はもうすぐ日曜朝の零時。

 土曜日の朝九時からほぼノンストップで描き続けている。一旦全ての絵を仕上げの手前まで片付けてしまおうと、一枚二時間弱のペースで進めている。この調子で行けば日曜日の午前中にはそのノルマを達成できそうだ。

 下描きは昨晩の時点で終わっていたのは本当に救いだった。これも英梨々のおかげだね。


 それにしても、正直早く全てを描き上げて……とっとと寝たい。


 ……と、いつもならそればかり考えている気もするけど、今日はそれ以上に勝る想いがあった。


 今度こそあいつ――タキくんを絶対に見返してやる!


 昨晩英梨々に手伝ってもらったとき、あたしは英梨々の技を盗もうとしたくらいだ。でも、実は盗むことができなかった。なぜなら英梨々の描き方、あれはとても真似できるような手法じゃないとすぐに気づいたからだ。

 でも、だったらあたしにできる手法ってどんなのだろう?と考えながら描き始めたのが、英梨々が帰った後の話。限られた時間の中で、いろんな描き方を試していたんだ。


 英梨々だったら、どういうタッチで描くだろう?

 出海ちゃんだったら、どんな風にまとめてくるだろう?


 でも……この絵を描くのは、あくまであたし。

 あたしの絵って、どこにあるのだろう?


 その答えのないあたしらしさを、前面に出す。

 誰もがはっとして、思わず目を留めてしまうような、そんなイラスト。

 忙しい駅の雑踏の中でもふと立ち止まって、癒やしを与えられるような、優しさが詰まった絵。

 ――それを描くのが、今回のあたしのミッションだ。


 今のあたしの画力は、英梨々と比べたら随分と劣るかもしれない。

 出海ちゃんが描くような豪快さも、あたしには不足してるかもしれない。


 でも、だからそれがなに?

 あたしはあたしだもん。

 あたしにだって、英梨々や出海ちゃんが持っていない部分がちゃんとある。

 それを描ききることさえできれば――

 英梨々にだって、出海ちゃんにだって、誰の絵にも劣らない絵が描けるはず。


 そうすれば絶対あいつなら、こっちを振り向いてくれるって――


 ☆ ☆ ☆


 あ……あと一枚。


 残るは『純情ヘクトパスカル』の舞台、和合市駅のイラストのみとなった。


 あたしはぎゅーっと両手を上げて、背伸びをする。そのまま壁にかかった時計の方へ振り向くと、時計の針は間もなく朝五時を指していた。六月も中旬を過ぎ、日が長くなっているせいだろうか、こんな時間でも外はだいぶ明るい。

 この和合市の絵をある程度描いたら、少しだけ寝よっかな。


 階段の方から足音が聴こえたのは、そんな時だった。


「嵯峨野さん、まだ頑張ってたの?」


 早朝の少し気が抜けた顔で、タキくんはあたしに話しかけてきた。


「それはお互い様でしょ? そっちも随分と眠そうじゃん。シナリオは順調なの?」

「ああ。今年はいつになく順調だね。夏コミにはワンルートのお試し版が出せるんじゃないかな?」

「へぇ〜。さすが『blessing software』もゲーム作り三年目ともなれば、テンポよく進んでる感じだね。あたしのところはまだまだ全然だよ。あたしのイラストだけ全然進んでない感じだし……」

「え、『cutie fake』もゲーム作りしているの?」

「……あ、いや、こっちの話だよ何言ってるのタキくん!!」

「あの〜嵯峨野さん。それはこっちの台詞なのですが……」


 まだタキくんにはあたしの方のゲーム作りについては秘密なんだから。

 なぜなら、こちらのシナリオライターは――


「でも、スクリプト作業を行う恵には、俺のシナリオを早く渡したいしな。あいつ、去年俺の進捗が遅れたら、ひたすらフラットな顔でちくちく刺してくるし、もう大変だったんだよ。今年はそういうことがないように進めないと……」

「大丈夫だよ、そこは恵ちゃん絶っ対に織り込み済みだからタキくんが急ぐ必要全くないって!」

「? ……なんでそう思うの??」


 タキくんがシナリオを書き上げる

 →恵ちゃんはスクリプト作業を行うため、自分のシナリオをとっとと書き上げる

 →結果、あたしのイラストだけが進捗を妨げる要因となる


 どうしたってあたしにしてみたら地獄のようなシナリオだ。

 あたしの寝る時間って、一体どこにあるのだろう?


「そ、そんなことより、キャンペーンのイラスト、確認してもらえないかな?」

「ああ。最初からそのつもりだ。それでは見せてくれるかな。」


 タキくんは自分の大好物を見つけた犬のように、あたしの絵をねだってきた。

 ……ふぅ。とりあえず、ゲーム作りの話はボロが出るだけなので、これ以上止めておこう。


 あたしは描いたイラストをUSBメモリに移し、それをタキくんに渡した。タキくんはそれを自分のノートPCへ移し、一枚一枚チェックを行っていく。

 タキくんの眼差しがより一層、際どくなる。あたしはその表情に、思わずつい見とれてしまった。


 ここに霞さんや町田さんがいたら、確実にツッコまれるだろうな。

 でも今朝はタキくんとふたりきり。

 あたしはもう少しだけ、あたしの絵だけを見てくれるタキくんの顔を眺めていたかった。


「あと、和合市駅が残ってるけど、その他は仕上げの直前まで完成。……ねぇ、どうかな?」


 胸が、痛い。

 ほんの僅かな間であるはずなのに、あたしの心臓はどきどきで、時が止まりそうな感覚に陥った。

 あたしの絵は、ちゃんと認めてもらえるのかな?


 するとタキくんはあたしの顔をきゅっと見て、にこりと笑顔を見せてきた。


「すっごくいいよ! どれもとてもよく描けてる。」


 やったー。タキくんにあたしの絵でこんなに褒められたのは正直初めてかもしれない。

 あたしだって絵描きの端くれ。やはりそう言われて嬉しくないはずがない。


「よかった。あたし、今回少し描き方を変えてみたんだ。」

「うん、それはすぐわかった。ひとつひとつのポイントが押さえられてて、嵯峨野さんの良さがはっきり出ているね。これまでの嵯峨野さんの絵の中では、今回のがベストなんじゃないかと思えるくらいだよ。」


 少なくともあたしの判断は間違っていなかったのかもしれない。

 時間のない中で、自分なりの描き方で描いてみて、それが概ね好評だったわけだから。


「じゃあこの描き方で、和合市駅のイラストも仕上げていくね!」

「ああ。この調子で和合市駅もお願いします! 嵯峨野先生!!」


 タキくんは自信満々にそう応えてくれる。それって、これでいいってことだよね。

 あたしは自分なりの絵を、自分なりに描いてみて、自分にしか描けない絵を――


 ……あれ?


 その瞬間、ふと湧いて出てきた違和感が、あたしの頭の中をもくもくと雲のように包み込んでくる。

 確かにこれは、あたしにしか描けない、あたしの絵なのかもしれない。

 だけど……。


「ねぇタキくん。そしたらあたしの絵って……」

「ん。なに、嵯峨野さん?」


 タキくんは相変わらず笑顔のままだった。

 でもその笑顔がますますあたしを不安にさせる。

 だって、今のタキくんのその素敵な顔って、本当にあたしだけのものなのかって……。


「……あたしの絵って、英梨々の絵や、出海ちゃんの絵より、すごい?」


 いや、それは単なる贅沢で、あたしの自己満足な愚問かもしれない。

 そもそも比較できるものではないのかもしれないし。

 だけどなぜかあたしは、それをタキくんに質問してしまったんだ。

 本当は今は質問すべきではないのかもしれない……そのはずなのに。


 タキくんは、あたしの表情がそのまま乗り移ったように少し顔を曇らせて、そして、こう言った――


「すごく……ない。」


 ふふっ……。やっぱりか。

 タキくんはきっとそう答えるだろうって、なんとなくわかってはいたんだ。

 でもなぜそう思ったのかは自分でもわかっていなかった。ただもやっとしたものがあたしの頭の中にあって、それで……だけど……。


 あたしの身体は完全に脱力感に支配されてしまった。

 やっぱし聞かなきゃよかったのにな――


「そっか……。そしたら、和合市駅の絵はもう少し工夫したほうがいいのかな?」

「いや、その必要は全くない!!」


 ところがタキくんはそんなあたしとは対称的に、強くこう言い放った。


「それって、すごくはないけど、そのままでいいってこと?」

「ああ、そうだ。……あまりうまくは言えないんだけど……」

「それは……今は時間がないから、仕方なくそのままでいいってことを言ってるの?」

「違う。そうじゃないんだ。」

「じゃーどういう意味よ!??」


 あたしは頭が混乱していた。

 確かに和合市駅だけを描き方を変えるのは時間的にリスクのほうが大きい。そんな話であればあたしにも理解できる。これは遊びじゃなくてお仕事だし、あたしの都合で企画を潰してしまうわけにはいかない。

 でも、まだ他の絵だって仕上げたわけじゃないから、多少の猶予は残っている。和合市駅の絵をもう少しだけ工夫して、それに倣って他の絵も仕上げていくことだってまだまだ可能だ。


 だけど、タキくんの回答はそうではないというのだ。

 それは一体どういうことなの?


「嵯峨野先生の絵、すごいわけじゃない。どれも、普通……なんだ……」


 え……?


「普通……? それって結局、全然ダメってことじゃん!?」

「だから違うんだって。普通に可愛くて、普通にいじらしくて、普通に涙が出てきて……」

「どういう意味???」


 なんだか馬鹿にされてるだけな気がするけど、タキくんの眼差しは真剣そのものだった。

 あたしにはどういうことなんだかさっぱりわからないのだけど――


「だからすごくはない。けど、これは英梨々でも出海ちゃんの絵でもない、嵯峨野さんの絵なんだよ。」

 

 ん……?

 あたしの頭は混乱の霧の中を脱出し、綺麗に描かれたクエスチョンマークだけがくっきりと残った。

 あたしだってそこまで馬鹿じゃないから、少なくとも馬鹿にされてるわけじゃないということだけはようやく理解できたんだ。あたしは間違えなく、あたしの絵を描いていた。それだけは確かなのだろう。


 とはいうものの……それにしてもなんだろう、このもやっとした感じは……。


 がちゃ――


 ……え。するとどういうわけか、部屋の外から突然物音が聴こえてきた。

 誰かが床へ雪崩落ちるように座り込む音。誰かがいるのだろうか?

 あたしはやや脱力したままそっと立ち上がり、リビングのドアを開けると、その音の正体を確認した。


「恵ちゃん……!??」


 そこにはぺたんと座った状態の恵ちゃんがいた。なんというステレス性能だろうか。

 恵ちゃんは虚ろな状態で、あたしと同じように……その目はどういうわけか死んでいた。


「そんなの……ずるいよ。だから真由さんはやっぱり……」


 そしてあたしの顔を見ようとせず、聞き取れないくらいの小さな声でそう呟いたんだ。

 まだ日が昇りきっていない暗い廊下で、あたしの瞳はただ、恵ちゃんの姿だけを探し続けていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る