冴えないサイコロの振りかた

 朝食を食べ終わると、あたしは黙々と絵を描き始めた。


 ここからはあたし一人の世界。

 もうラフ絵のチェックも終わってるし、下描きの面倒な作業も昨晩英梨々に手伝ってもらったので、全て終わってる。

 残りはイラストを一枚一枚、丁寧に仕上げていくだけだ。全部で13枚。可能なら週末のうちに――明日までには全部終わらせたい。


 そうしたらようやくあたしの合宿缶詰め生活も終わり。

 一人でゆっくり、今度こそちゃんと寝るんだ!


 英梨々は朝食を食べ終わると早々に帰って行った。今日は英梨々、自分の仕事を片づけるんだって、そう言ってた気がする。そりゃ売れっ子イラストレーターさんだもん。これ以上邪魔しちゃさすがに申し訳ない。

 タキくんも自分の部屋に一人で籠もり、今年の『blessing software』のゲームシナリオを書いてるんだそうだ。『何かあったらすぐに呼んで』と言われているけど、後は絵を仕上げるだけだし、担当編集さんと言えど実はそれほど用があるわけでもなかった。


 あたしは引き続き、安芸家の一階の居間を使わせてもらっている。

 ひとりで、集中して――

 絶対に今度こそ、二階にいるあいつをあたしの絵でぎゃふんと言わせてみせるんだって……


 だから――

 恵ちゃんも、自分のシナリオに集中してほしいって、心の底ではエールを送りたいって、それがあたしの本音だったんだ。

 確かに恵ちゃんの悩みのことなんか、あたしには関係ない。

 それでも、恵ちゃんはあたしの友人には変わりないから、だから……。


 ☆ ☆ ☆


「少し、休憩しよっか? 英梨々が置いてった紅茶があるよ。」


 そう言ってタキくんがあたしのいる居間にやってきたのは、15時くらいのことだった。お昼はキッチンに用意されていたサンドイッチを二人で黙々とつまんだ程度だったから、タキくんがこうして話しかけてくるのは朝食の時以来な気がする。

 お昼のサンドイッチ……そういえばあれも朝から置いてあったよね。

 だから、多分きっと――


「うん。じゃーあたしはお湯沸かすね。」


 そんなことを考えながら、やかんに水を入れ、火をかけた。青い炎がやかんの下から光を灯す。すると間もなくくつくつと音を立て始め、あたしに水が温まりつつなることを知らせてくる。

 これでよしっと。


「ねぇータキくん。お茶菓子かなにかどこかにないわけ?」

「そんなものはなぁー、ないっ!」

「うっ。なんかそれちょっと寂しいね……」


 目の前に置かれた英梨々が持ってきたという紅茶のブランドを見て、あたしはつくづくそう思った。だってこれ、あたしも名前くらいは聞いたことあるような超高級ブランドものの紅茶じゃん! それがここに袋ごと無造作に置かれるとか、どんだけ英梨々はお嬢様なんだよ!??

 それにしてもお茶菓子がないのはやはりがっかしだ。そういえば先週の霞さんとの合宿の時も英梨々が差し入れを持ってきていたわけで、いつもどこかの四次元なんとかみたいにぽんぽんとおやつが出てくるわけではないもんね。


 あ、やかんがぱかぱか言い始めた。どうやら沸いたみたいだね。

 たしか紅茶は沸騰直後くらいの熱々のお湯で……だけどあたしはその紅茶を前に、妙な緊張感を覚え始めた。


「なんか手が震えてるように見えるけど……嵯峨野さん大丈夫?」

「こ、こんな時には話しかけないでよ! ますます手が震えるじゃない。」

「いや。だってそれ、紅茶を普通に煎れるだけだよね?」

「あんたの目は節穴!? この紅茶のブランド、一袋で五千円くらいするんだけど!!」

「そんなバカな。だって英梨々のやつ、それを毎週のように持ってくるんだぜ。ほらそこにもまだ在庫の山が……」


 ……え? タキくんの言うとおり食器棚のすぐ真横を見ると、あたしには五千円札にしか見えない紅茶の袋が山となって積まれていたわけで……


 こら、英梨々ぃー!!!!


「あら嵯峨野さん、そんなびくびくしながら紅茶ひとつまともに煎れられないなんて……さすがになんだかちょっと間抜けな構図ね。」


 うっ。この声は……。

 こんな時にもう一人、あたしはこの姿を見られたくない人に見られてしまった気がする。


「だったら霞さん、あたしの代わりにこれ煎れてください。」


 というよりどこから入ってきたのよ!??


「嫌よ、そんな100gで一万円もするような紅茶とか、私には興味ないし。」

「興味の問題じゃなくて……え、これ一万円!??」


 やばい。あたしの記憶からさらに倍の値段になってる。今すぐにでも金銭感覚が麻痺してしまいそうだ。

 ということはあそこに積まれた山って、五千円札ではなくその倍の……!??


「あー、その紅茶ならしーちゃんとさっきデパートで見かけたけど、確かに一万円の値札が付いてたわね。こんなの誰が買うんだろとか思ったけど、まさか嵯峨野先生がこういうのを買う人だったとは、全然想像もしてなかったわー。」

「違ーう。これここに持ってきたのは英梨々だから!!!」


 次に聞こえてきたのは町田さんの声だ

 こんな姿を町田さんにまで見られるとは不覚の一言だ。絶対後で大人気なく弄られるに決まってる。


 ったく、普段『負け犬」とか呼ばれてるくせに、こういう時だけ誰も勝つことができないチートキャラなんだから、英梨々って本当にしょうもないお嬢様だよね。

 やっぱし何をどう考えたって、英梨々があたしのお義姉さんとか絶対に想像したくもない!!


 ☆ ☆ ☆


 ただこのタイミングで霞さんと町田さんが訪ねてきてくれたのは、まさにグッドタイミングだった。さっきまでテーブルには紅茶の注がれたティーカップしかなかったんだけど、そこに町田さんが買ってきた小さなケーキが添えられる。

 それはいかにも甘そうな、アップルケーキ。

 これはもうあたしの好み絶対わかってますよね、町田さん。


「でも嵯峨野さん、先週に引き続いて合宿って言ってたから私は少し心配してたんだけど、元気そうで安心したわ。」


 町田さんは紅茶を少し口に含みながら、あたしの顔を見てそう言ってきた。今日は土曜日でオフだったはずなのにビジネススーツをびしっと着こなし、その高級紅茶の香りが漂うこの部屋ではいかにも仕事のできる女性という感じで、あたしははっと憧れてしまう。


「その点は大丈夫です。昨日も霞さんや英梨々が来てくれてましたし、ひとりで作業しているわけではないですから。それに……」


 そう、みんなのおかげ。そしてあたしの目の前に座っているこいつに――


「タキくんがあたしとひとつ屋根の下で、ずっとこうして見守ってくれるから、あたしはその視線を受け止めて、そしてこれから二人だけの夜を……って、それは甘すぎるわ嵯峨野さん。このアップルケーキ並みに激甘ね!」

「勝手に他人の台詞に尾ひれをつけて、あたしの口真似するのやめてください霞さん!!!」


 あたしの反発なんて気にも留めず、霞さんはアップルケーキを口に運んでいた。

 そりゃ確かに、タキくんはずっと優しいままだし、ひとつ屋根の下っていうのも間違えないし、これから二人だけの夜を……って、そんな余計なことを考えたら絵が描けなくなってしまう。

 これは合宿。今日はこいつに認めてもらうためにあたしは必死で絵を描いてるんだからっ!


「霞ヶ丘先輩、これでも嵯峨野さん集中してるんですから、あまり変なことを吹き込まないでください。」


 タキくん……ちょっと待て。『これでも』って一体どういう意味だ!?


「あら倫理くん。嵯峨野さんの邪魔をしているのはいったいどっちの方かしら。」

「え、なんのことですか? 霞ヶ丘先輩。」


 霞さんはタキくんにちょっと悪戯な笑みをこぼす。すると、霞さんは鞄のポケットからハンカチを取り出してみせた。

 それは女性用のハンカチ? でもそのハンカチ、あたしも見覚えがあった。

 見た場所は……そう、大学の食堂だ。

 つまり、その持ち主は……


「これ、さっき玄関に落ちていたのよね。私が昨日の終電で帰ったときにはこんなの落ちていなかったんだけど。」

「あ……あー、それは英梨々のじゃないかなー? あいつは今朝ふらっと帰ったわけだし。」


 タキくんは目を泳がせながら……いや、本人は誰かのフラットな顔を物真似しているつもりなんだけど、悪いけど全然似ていない。そしてそれ、どうしたって嘘がバレバレだよね。


「ふーん、そうやってシラを切るつもりなんだ、このヘタレ倫理くんは。」


 が、まるでその回答を予測していたかのように、霞さんは自分のスマホを取り出し、保存されていた一枚の写真をあたしたちに見せてきた。そこに写っていたのはこのハンカチ。……と、その持ち主――


「め、恵が英梨々からこのハンカチを借りたんじゃないですか?」

「往生際が悪いわね〜、倫理くんのくせに嘘を付くとか。」


 霞さんはとっさに出てきたタキくんのその話をまともに受け止めようとはしなかった。

 これは完全に霞さんのペースにハマりつつある。


「そうよね〜、往生際が悪いわよね。詩ちゃん、私がさっきこのハンカチを玄関で見つけたら、必死にこの写真をスマホから探し始めて、やっとの思いで見つけた一枚だったものね。あんな風に必死な顔で小説の締め切りも守って書いてほしいわ〜」

「町田さんは少し黙っててください!!」


 ……が、最後に話のペースを手中に収めたのは、霞さんではなく、町田さんだったようだ。さすがの霞さんも、町田さんには敵わないみたいだね。


「ねぇ、タキくん。朝食作ったのも、お昼のサンドイッチ作ったのも、恵ちゃんでしょ?」

「……うん。」


 タキくんはようやく白状することを心に決めたようだ。


「え、それって加藤さん、嵯峨野さんや澤村さんに一度も挨拶もせずに食事だけ作って帰ったってこと?」


 霞さんはあたしの言葉が少し意外だったらしい。

 そうだ。恵ちゃんは今朝、あたしと英梨々が眠った後この家にやってきて、朝食のコンソメスープと、お昼のサンドイッチを作って帰ったんだ。誰にも見つからないように、そっと……。

 まるで、英梨々やあたしから逃げるように――


「恵、『今日わたしがここに来たことは誰にも言わないで』って言って、すぐに帰っちゃって。」


 やや下向き加減で、小さくちぎったアップルケーキを口にしながら、タキくんはそう答えた。


「そのお話は非常に興味深いわね倫理くん。ぜひぜひその話の続きを聞かせてほしいわ。」


 タキくんの表情などお構いなく、霞さんの尋問が続く。

 まるで自分の小説のネタにしてしまいそうなくらい、目をキラキラ輝かせながら――


「そうよね。……でも詩ちゃん。今日は嵯峨野さんの絵を完成させるのが第一目標よ。だから、あまり事を荒立てるようなことは今日はよしておこうね。」


 が、そこに町田さんの横槍が入った。……なんだろうその言葉、むしろ嫌な予感がする。


「町田さん。これは二度と来ないかもしれない次回作のネタになりそうなお話を聞けるチャンスなのよ!」

「でもね詩ちゃん、今日は嵯峨野さんのお仕事が第一優先なんだからね。」

「いいのよ嵯峨野さんは。いつもマイペースでどうせ放っておいても何も起きやしないんだから。」


 ……ふぇ……?


「ちょっと霞さん!! あたしはたしかにマイペースかもしれないけど……でも……」

「ほ〜ら、またそこですぐに口ごもらせる。その調子だと仮にここで一マス進むようなことがあったとしても、どうせ明日には二マス下がってるわ。やっぱし嵯峨野さんの出番はまだまだね。」

「うっ…………」


 言われたい放題だ。でも霞さんの言葉はあながち的を外れていない気がしている。

 だからってそこまで露骨に……。


「ほら〜詩ちゃんが本当のこと言うから、嵯峨野さん泣きそうな顔になっちゃったじゃない!」


 町田さん……それ全く、全然フォローになってないです!!


「知らないわよ〜。嵯峨野さんがいつもどおりなのが悪いのよ。」

「いつもどおりかもしれないけど、嵯峨野さんだっていつも一生懸命なんだから。」


 あ、あのねぇ〜……!!

 あたしはもはや顔のやり場を失いつつあった。ところでなんでこんな話の流れになってるんだ?


「ストーップ! とりあえず嵯峨野さんいじめて作業が進まなくなると困るから、これ以上この話はやめようね。」


 ……へ? いったいこれ、どういうオチなんだっけ?


「ねぇ……タキくん。それって、今の話の流れ、ちゃんと理解できてるの?」


 あたしは目をぱちくりさせながらとっさにそんな質問をしていたが、そんなあたしの素の質問には、誰一人答える人はいなかった。

 なんだか本気であほらしくなってきたよ……


「……まぁこれ以上嵯峨野さんを刺激するのもあれだし、今日はこのくらいにしといてあげるわ。その代わりこの合宿終わったら倫理くん、たっぷり今日の話を聞かせてもらうから。」

「あの〜霞ヶ丘先輩。本気で恵のことを小説のネタにしようとしてますよねそうですよね!?」

「あら楽しそうじゃない。恵さんも面白いお話書くのも得意だし、きっと面白い小説になるわ。」

「町田さんまで!? てゆうか、恵の書く『面白いお話』って一体何!??」


 結局あたしは何だったのか……と思わないことないけど、とりあえず今は絵を描くことに集中しようっと。

 というより、さっきのタキくんの言葉のおかげで、あたしは余計その炎を強くさせていた。


「ねぇタキくん。」

「え?」


 彼は一瞬驚いた表情を見せる。でも、その顔を見て確信するんだ。

 やっぱりあたしはあんたのことが――


「明日は絶っ対にあたしの絵でぎゃふんと言わせてみせるから、覚悟しておきなさいよ!!」


 たとえそれが許されないことだとしても……。


 するとタキくんは小さな笑みを返してきた。

 それは、あたしの挑発をさらりとかわしているようにも見えたわけで――

 すぐ隣にいた町田さんはまさに『してやったり』という表情で、ちょっとムカついたけど。

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