冴えないコンソメスープの煮込みかた

「おーい。英梨々~、真由さ~ん!!」


 ……ふにゃ。ココハドコ、ワタシハダレ?

 カーテンの隙間からは明るい朝の日差しが燦々と入り込んでくる。

 それと同時に、タキくんの声が暗闇を照らす一本の光のように、あたしの耳元に伝わってきた。


 さっきまで微かに聴こえていた包丁をとんとんとんと叩く音はもうなくて、今は爽やかな朝を告げるコンソメの匂いがあたしの鼻を包み込んでいる。

なんていい匂いなんだろう。

 暖かくて、懐かしくて――

 それはまるで大量にあった仕事から解放されたときのような……


 ……え、お仕事!??


「そろそろ目を覚ましてくれないと、俺がここで朝食を食べれないのですが。」

「ふぇ……?」


 あたしはなんとか強引に重い瞼を全開まで開こうとする。

 うっ、眩しい……。

 辺りを見回した瞬間、仕事モードの現実に引き戻された。目の前にはいつもの見慣れたタブレットがあり、その向かい側では英梨々がさっきまでのあたしと同じように、まだ寝息を立ててすやすやと寝ている。


 もう、朝の九時か。

 そりゃタキくんもとっくに目を覚ます時間だよね。


 そう。ここは編集さん……安芸家の一階にある居間。

 ここであたしと英梨々は、『純情ヘクトパスカル』東部線コラボイベントの下描きを描いてたんだ。昨晩英梨々と二人で描き始めて、全てを描き終えたのは朝六時過ぎくらいだった。


 ……その時まではさすがに記憶あるけど、いつの間にか力尽きて寝てしまったみたいだ。


 編集さんは未だに起きようとしない英梨々の肩を揺すり、なんとか起こそうとする。が、それでもまだ起きそうもないので、そろそろ編集さんもお手上げ状態という具合だった。

 あたしは英梨々を起こさないよう、小さな声で編集さんに呟いた。


「英梨々も六時頃まで頑張ってたし、あんたのお望みの下描きももう全て終わってるから、もう少し寝かせてあげたら?」


 だって、英梨々は今や超売れっ子イラストレーター。

 こんな風に手伝ってくれるだけでもありがたいんだから、ここまで出来てるわけだしもう少し休ませてあげなきゃね。


「ありがとう、嵯峨野さん。遅くまで二人で頑張ってたんだね。」

「遅くまでというより、寝たときは既に明るかったけどね。」


 あたしは両手をぐっと持ち上げて、背伸びをした。そんなあたしを励ますように、タキくんはほっとするような笑みを返してくる。カーテンから入り込んでくる日の光りに照らされたその顔は、まるでさっきまで見ていた夢の続きのようで――

 それ、少し反則だよ。


「どうしたの嵯峨野さん? 今、急におどおどした顔をしたように見えたけど?」

「べ、別に何もないわよ! まだ全然仕事が終わっていないのに、そんなことあるわけないでしょ!!」

「おぉ〜、それそれ! その二次元テンプレ的なツンデレの反応、嵯峨野さんみたいな人がするとなんだかものすごく萌えるよね~!!」

「ちょっと!! あたしみたいなってどういう意味よ!?」

「いやぁ〜、だって嵯峨野さんもそういうの好きでしょ?」

「別にそういう話じゃなくて……そもそもそれはどっちかというと英梨々の十八番おはこというか、あたしには……」

「真由〜。あたしがどうかしたって~?」


 あちゃ。あたしたちの会話が聞こえたのか、振り返るとそこには両目をきゅっと釣り上げた英梨々の顔があった。もう少しだけ大人しく寝ていればいいものを。

 あたしは何事もなかったように、顔を取り繕って英梨々に笑みを返す。


「あ、おはよう。英梨々……?」

「そんな顔してあたしを宥めようとしてもムダよ。さっきの話してたことについてしっかり説明してもらおうかしら? お姉さまに対する非道なる暴言、いくら真由でも絶っ対に許さないわよ!」

「……あたし、こんな怖い『お姉さま』を持った記憶、生涯一ミリもないんだけどなぁ~」


 英梨々はその両手であたしの顔をぎゅっとつねってくる。

 目が覚める程度には、ほどよく痛い。


「ほら。英梨々も嵯峨野さんも遊んでないで。簡単な朝食用意したから、冷めないうちに早く食べちゃってよ!」


 別に遊んでるわけじゃないんだけど……って、朝食??

 ふと見ると目の前のテーブルに広がるお皿には、タキくんが盛り付けたとは思えないほど丁寧に彩られた状態で、ハムエッグとサラダが並んでいる。そしてキッチンのコンロには、野菜たっぷりでいかにも手の込んでそうなコンソメスープが用意されていた。あ、さっき夢に出てきたのはこれだったのかな?

 口にするまでもなく、見ているだけで食欲がそそられる朝食。とても美味しそうだ。

 でもこれ、本当にタキくんが用意したんだろうか?


 ……あれ? だけどあたしは昨晩までこのキッチンには存在していなかったものを、もうひとつだけ確認した。何事もなかったようにタキくんは慌ててそれを回収して引き出しにえいっと放り込んだけど、あたしはふとそれに気づいてしまった。

 それは、胸元に花のリボンが付いた、女性向けのエプロンだった。

 それって……ついさっきまで、タキくんの他に誰かがいたのだろうか?


 ☆ ☆ ☆


「うわ、このコンソメスープ、ほんと美味しい! これ、倫也がつくったの?」


 3人でいただきますをした直後、早速英梨々はそのコンソメスープを口にした。

 それもそのはず。だって今日の朝食の中では際立って美味しそうに見えるんだもん。あたしも英梨々と同じように

迷わず、一番最初にそのスープを口に運んだ。


「う、うん……そう、だよ。」


 が、英梨々の質問に対して、タキくんの反応はやや鈍い。


 これは、明らかに嘘だな。そう感じたあたしはちょっとだけタキくんをつついてみる。


「へぇ〜編集さん、こんなに料理上手だったんだ〜? ねぇ、今度これの作り方教えてよ?」

「あ……いやぁ〜、俺も作り方教わったばかりで、まだよく覚えてないんだよ。」

「え、でも今日はこんなにうまく出来てるじゃん! これで、作り方を覚えてないの?」


 タキくんはもぞもぞとし始め、返答に窮しているようだった。

 これではあたしがまるでタキくんをイジメてるみたいだ。そんなつもりではないんだけどなぁ〜。


「ねぇ倫也。これ、レシピ教えたのって、恵でしょ?」

「……あ、うん。そうだよ。」


 するとまるで英梨々の助け舟に乗るかのように、タキくんは急に返事が力強くなった。


「やっぱしね〜。そうだと思ったんだ〜。」

「そう、思ったんだ?」

「うん。だって、倫也に料理教えられるのって、恵以外いないじゃん。それになんとなくこの味、懐かしかったし。」


 英梨々はきゅんとなるような笑顔をこぼす。それは、タキくんのしゅんとした顔を吹き飛ばすには十分な程度の力を持っていた。

 そういえばたしか英梨々、昨晩も同じようなこと言ってたっけ。


 恵ちゃんがいて、自慢の料理を振る舞っていた合宿の時のこと。

 恵ちゃんがいなくて、夜食もなかった面白くも少し切ない合宿の時のこと。


 きっと英梨々にとってはどちらも大切な思い出のひとつなんだろうけど――


「英梨々には恵ちゃんの味って、わかるんだ?」

「そりゃわかるよ。あたし、二年前は毎週のように恵の手料理食べてたもん。」

「ああ、そうだな。毎週のようにここで合宿してれば、恵の味だって覚えられて当然だよな。」


 でもあたしにはそれが途方もない話をしているような気がした。毎週のように合宿して、その度に恵ちゃんは手料理を振る舞って、そんな思い出を『blessing software』のメンバー全員で共有して……。

 そんな温かい絆で結ばれていたのかも知れない。それはちょっと羨ましかった。


「恵ってさ、いっつも楽しそうで、それが料理の味にもちゃんと出てて……でも……」


 英梨々はもう一口だけ、コンソメスープを口につけた。

 だけど急に何かを思い出したかのように、スプーンをそこで止めてしまった。


「ん。どうした、英梨々?」


 その英梨々の表情の異変には、さすがにタキくんも気づいたようだ。


「この味って、これ倫也のじゃなくて……ううん、そうじゃなくて……」

「え?」


 英梨々は今、何かを言いかけた。それは恐らく、あたしが感じたのと同じこと――


「ねぇ、あんたって、本当に恵のこと、わかってるの?」


 だけど、英梨々は話を途中で遮断して、別の方向へ持っていった。


 でもその質問は昨日、霞さんがした質問とほとんど同じものだった。

 いや、もう少し言うと、つい先日あたしがタキくんにした質問とも似ている気がする。あたしも最近タキくんに、『恵ちゃんの気持ちに本当に寄り添えてるのか』って聞いたことがあった。それはなんとなくだけど、恵ちゃんの様子のどこかに違和感を感じたから。

 恐らく英梨々も、それに似たものをこのスープに感じたのかも知れない。

 その質問は少しずつ異なっているけど、ひょっとするとベクトルは全て同じ……?


 ……そうだ。さっき見たあのエプロン、実は――


「俺も……恵がなにかおかしいって、気づいてはいるんだ。」


 するとタキくんは、ようやくずっと言い出せなかったことを話し始めた。

 ややうつむき加減で、どうみても自信なさげで……。

 なんだかそのタキくんの表情、あたしは少し悔しくて、なかなか正視できなかったけど。


「倫也、どうしたのよ急に……いつもあんなに恵といちゃいちゃしてたくせに。」

「いや、それが実はそんな急な話でもないような気がしていて……」


 タキくんは一旦スプーンをテーブルの上に置いた。

 ……でも本当は、できれば聞きたくない話を、タキくんは話そうとするんだ。


「それって、倫也が悪いの? 何か知らない間に恵を怒らせるようなことをしたとか。」

「いや、それはない……と思う。だって、俺に対しては前からずっと変わらないから。」

「前から変わらない? 倫也、本当に何も思い当たる節はないの?」

「ああ。俺に対してはいつもフラットだし、その点は前からブレずに常に一定だ。」


 英梨々の疑問に対して、タキくんはきっぱり否定した。

 そう、あたしもそれは同感だった。タキくんに対して、恵ちゃんはこれまでずっと何一つ対応が変わっていない気がする。いつもタキくんを弄んでるような、からかっているような……。

 だって恵ちゃん、絶対に彼氏の前ではいつも強気でありたいって思ってるみたいだし。


 だけど、タキくんが知らない恵ちゃんを、あたしや英梨々、霞さんも感じているのかも知れない。

 でももし、そうだとしたら――


 あたしはもう一度、このコンソメスープの味を噛み締めてみた。

 美味しい、たしかに美味しい。

 ……けど、よく噛みしめると、実はどこかでフラフラしてる。

 その味に核となる部分を感じなくて、ただふわっとしていて、なんだか惜しい味付けなんだ。

 どうしてそう思うのだろう? だけどきっと英梨々も同じように感じたのだろう。


 だってこれは、本当の恵ちゃんの味ではないのだろうから。

 きっと本人も味見して気づいているはず。

 だからきっとここには――


「タキくんは恐らく……何も悪くないよ。」

「嵯峨野さん……?」


 あたしは思わず、妙なことを口走ってることに気がついた。

 でもなんだか、黙ってなんかいられなくなってきたんだ。


「だから、タキく……編集さんは今はあたしのイラストのことに集中して。お願いだから。」


 だって、こんなことでくよくよしているタキくんを見ていられなくなってきたんだ。


「お願いって……どういう意味?」


 タキくんは少し不思議そうな顔で、あたしの顔を見つめてきた。

 そんな顔であたしを見るの、できれば止めてほしいのだけど。


「ねぇ編集さん。あたしを本気にさせてくれるんでしょ。だったらあたしに本気でぶつかってきてよ!」


 だって、こんなの不条理だもん。こんなことであたしの仕事を邪魔されてたまるもんか。

 あんたの悩みなんて、そんなのあたしには関係ないよ!


 あたしはぎゅっと、目を瞑った。なぜならもう少しで涙が出そうなことに気づいたから。

 そんなの、今のタキくんには絶対に見せたくなかったし……。


 だからお願い。今はあたしのイラストだけを見て!!


「だからね。あたしも本気でイラストを描いてみせるから……」


 あたしは舌を小さく、ぺろっと出した。


 少し深みのあるお皿には、美味しい、けどちょっとっだけ酸っぱい――

 ……そんなスープがまだほんの少しだけ残っていた。

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