ほっかほかな弁当の楽しみかた
花金だったはずの金曜日――
今日はあたしの編集担当であるタキくんの部屋で、締め切り迫ったあたしのために合宿を……というときっと多分響きがいいのだけど、次から次へとお邪魔な人々……じゃなかった、助っ人の方々がやってきて…………。
まぁ合宿だし、当然だよね。
出海ちゃんは霞さんがやってくると、安心した表情を浮かべそそくさと帰ってしまった。正直何に安心したのかはわからないけど、妙な誤解だけは止めてほしいなというのが本心だ。
『誤解』……って本当に何のことだ?
部屋に残っているのは、この部屋の主である編集さんと今回の合宿の主役らしいあたし、それと今日はあたしの手伝いをしてもらってる英梨々、そして『純情ヘクトパスカル』作者である霞さんだ。
ついさっきまでこのメンバー四人で東部線コラボ企画イベントのラフ絵のチェックを行っていた。ラフ絵初稿のチェックが一旦全て終わると、作業の続きを始める前に四人で夕食を摂ることにした。
ただ、このメンバーだとどうしたって出前になってしまうよね。
毎日兄と交代で料理してるあたしは四人分くらいなら作れないことないけど、それだとあたしの作業が止まってしまうわけで……
……というより皆さん、普段どうやって食事してるの!? なんだか一人一人を想像してみたがいずれも恐ろしい光景しか思い浮かばなかった。
「ところで今日って、恵はいないの?」
「あら澤村さん。最近彼氏ができたって聞いた気がするのだけど、そんな彼氏に料理のひとつ振る舞えないとか、それってどうなのかしら?」
出前というより、今日は編集さんが先ほど買いに行ったほっかほかの弁当屋さんのお弁当だった。コンビニ弁当でないだけマシかもしれないけど。
とりあえずほっかほかに温かい弁当というだけ有り難い。そのお弁当は疲れた身体を癒やす程度の実力は秘めていて、あたしの体力が徐々に回復していく。
なお、今のあたしはこの有り難い夕食に集中してるわけで、英梨々と霞さんの対立には絶対に不干渉と決めていた。
「だってあたしの彼氏、あたしの作った料理よりずーっと美味しいもの作るんだもん。」
「それは英梨々がいつもカップ麺ばかり食べてるからだろ!」
そこへ編集さんの鋭いツッコミが入るが、やはりあたしはそのままスルーを貫き通す。
あたしは何も聞いてないし話すこともない……
「そんなことないわよ倫也。彼、少なくともあんたよりはずっと料理得意よ。下手すると恵よりもね。……ねー、真由?」
「そこであたしに話を振るな!!」
ちっ、しまった。思わず反応してしまったじゃないか。
ちなみに英梨々と我が兄文雄が付き合っているという話は他の人には秘密のはず……?
……それ本当に秘密なんだよね英梨々???
と、先週の湘南海岸の合宿で、英梨々と兄が車で一緒に帰るところを霞さんには見られてしまったことをふと思い出したけど、少なくとも編集さんにはなんとなく知られたくはないかな。
ただこいつは鈍感だからそう簡単に気づくことはないだろうけど。
「まぁ澤村さんの彼氏がこんな負け犬街道まっしぐらな彼女をたとえ本気で相手にしていないようなクズ野郎だったとしても、澤村さんがこの調子ではいつかぽいっと段ボール箱に捨てられても文句は言えないわね。図々しくも彼氏の家の台所を占拠して、さり気ない顔で手料理を振る舞うようなどこかの誰かさんの真っ黒なところも、少しは見倣ったらどうかしら?」
「彼はそんなクズ野郎じゃないもん優しいもん絶対にっ!!」
「あの〜詩羽先輩? どさくさ紛れにここにいない恵を刺すのはやめてもらえないでしょうか?」
霞さん、『クズ野郎』と言ったとき一瞬あたしの方をちらっと見た気もしたけど……
いや、やっぱり絶っ対にあたしは無関係だからね!!!
「そうよ。恵はどうしたのよ? いつもならこんなときに真っ先に倫也の台所を占領して焼きそばとか作っていたじゃない。」
「英梨々まで恵を刺さなくていいから。でも、恵なら『今日は別に用事があるから』って言って、来なかったんですよ。あいつ、ノートPCで原稿っぽいものを書いてるらしくて、『何書いてるんだ?』って聞いても教えてくれないし。」
「あー、『あれ』ね……」
その霞さんの相槌に英梨々とあたしも納得できる程度には思い当たるフシがあった。
そっか。恵ちゃん、例のシナリオを書き直している最中だったのか。水曜日にメンバーでチャットを使って打ち合わせをしたんだけど、たしかその時恵ちゃんは『納得できない箇所が出てきたから書き直してみる』と言っていた。あたしたちはもう十分面白いシナリオだと思ったんだけど、恵ちゃん本人がどうしても書き直したいって聞かなかったんだ。
もっともシナリオもほとんど書き終えてるし、冬コミには十分なお釣りが出そうなくらいには進捗良好なんだけどね。
……主にあたしのイラストパートを除けばの話だけど。
「……って、なにみんなで納得した表情してくれてるんですか!??」
まぁひとり知らずは彼氏のみ……か。
それにしても、なんで恵ちゃんは彼氏に知られずシナリオを書いてるんだったっけ?
「たしかに、倫理くんが感じている以上のことは、そこにいる倫理くん並みに鈍感な澤村さんでさえも気づいているわね。」
「そこであたしを比較対象にするな霞ヶ丘詩羽っ!!!」
突然話を振られた英梨々の怒りには一切触れず、霞さんは話を続けた。
「でもね、倫理くん……。ひとつ、聞いていいかしら?」
「なんですか。詩羽先輩?」
霞さんの表情はタキくんを試しているようなそれに変わった。
そしてタキくんに、こう聞いたんだ――
「あなた、本当に加藤さんとうまくいっているの?」
その瞬間、タキくんの部屋の空気が止まった。
「やだな〜先輩。俺と恵はうまくいってるに決まってるでしょ? この前の東京駅だって、恵の方から俺にあんなことを……って何言わすんですか詩羽先輩っ!!」
「っ……」
そのデレデレの編集さんの表情に最も反応したのは英梨々だった。『東京駅』という単語を耳にした瞬間、英梨々の口元はへの字に曲がり、明らかに怒りの表情を隠せないでいる。ひょっとして英梨々って、『東京駅』というフレーズにトラウマ的な感情を持っているのだろうか。
だけど霞さんの表情はなにひとつ変わらない。まるで予想していたとおりの反応が返ってきたとばかりに、次に発射する弾丸は既に着火済みだったようだ。
「そうね、私も知ってるつもりだわ。先週も今週も週末はずっと私や嵯峨野さんに付き添って、加藤さんを全然相手にしていなかったという程度はね。」
……え。だってそれは――
「その点は大丈夫ですよ。恵、俺の編集の仕事についてはちゃんと理解してくれてて、むしろ応援してくれてますから。」
そう、編集さんは胸を張って自信満々に言い張った。
その点についてはあたしも編集さんの言うとおりに思えた。というのも、大学で恵ちゃんとあたしの二人だけでいるときも、あたしに対してヤキモチを焼くような態度は一切なく、普通に『不死川書店に迷惑かけてないですか?』とか『霞ヶ丘先輩とうまくやれてますか?』とかを聞いてきて、まるで編集さんの保護者のように心配しながら温かく見守っているのは十分に感じたから。だからこうして編集さんがあたしや霞さんと一緒に仕事してても、それについては恵ちゃんは大丈夫だって……あたしもタキくんに同意見だった。
いや、そうじゃなくて――
霞さんが言いたいのはきっとそこではない。
そう、なんとなく……あたしにもその違和感はどこかにあったんだ。
すると霞さんは小さな笑みを溢し、こうやって静かに話を閉じたんだ。
「……そうね。加藤さん、倫理くんに対しては思いっきり笑い飛ばしてあげたくなるほどの痛々しい乙女だもの。まったく、私たちに対するあの強気な態度はどこへやら……。たしかに尋ねる相手を間違えたかも知れないわ。倫理くん、今の話は忘れてちょうだい。」
含みのある霞さんの言い方に、やはりあたしは違和感ばかりが積もってっていく。
その正体がなにであるのか、まだあたしにはわからないけど……。
「恵、俺に対しても十分強気ですよ? 俺に対していつもフラットな顔で接してくるし。」
「そう……かもしれないわね。」
一番最初にほっかほかの弁当を食べ終わった編集さんははっきりそう言い放った。
この顔を恵ちゃんに見せたらどうなるんだろう? 思わずそれを考えてしまう程度にはいい顔をしていた。それを想像するだけで、やはり恵ちゃんが羨ましくなってくる。
だから、恵ちゃんと編集さん……やはりいい関係なんだろうなぁ〜。
はぁ〜……と思わず溜息をつきながら、あたしは弁当の隅に最後まで大事に残していた小さな和菓子を、ぺろっと口の中へ放り込んだ。
☆ ☆ ☆
弁当を食べ終わると、一連の流れ作業が始まった。
あたしが描いた13枚のラフ絵を、編集さんと霞さんがチェックをして付箋のメモを貼っていく。その箇所をあたしがひたすら修正するという繰り返しだった。ちなみにあたしの場合は、それと並行してラフ絵OKとなったものから下書きを起こすフェーズまで入っている。
その際、ラフ絵のチェックということで編集さんと霞さんは何度か長い議論を交わしていたようだった。『この駅はもっと田舎のイメージだから』とか『このヒロインはもっとだらしないから』とか、それ程度であればまぁ許容範囲内。だけど『このヘタレ主人公が!』とか『ただの金髪ツインテールが!!』などという霞さんの怒声が飛び交ったときには、さすがに英梨々も思わず反応して、後ろを振り返ってその様子を確認していたようだった。
英梨々はというと、あたしが描いた下書きから不要な線を消していく作業を手伝ってもらっていた。その際にも英梨々から明らかにおかしな箇所をいくつか指摘してもらい、あたしもその修正を余儀なくされたけど、どちらかというと英梨々からの指摘は最低限に収まった感があった。
とはいえ、編集さんはともかく、やはり英梨々はチェックは細かいね。
あたしも見倣わなくては。
ラフ絵のチェックが全てOKとなったのは、間もなく曜日が土曜日に変わる直前のこと。ちょうど終電近くの時刻だった。その前から何枚かのラフ絵は描いていたものの、今日は昼間から始めていたわけだから、およそ12時間くらい没頭していたというわけか。
ここで霞さんは時間切れ。終電で帰ることになった。
「それじゃあね。嵯峨野さん、倫理くん。また明日の夕方くらいに来るから。」
「はい。詩羽先輩も気をつけて。」
編集さんの家の玄関先で霞さんを見送る。その時に見せてくれた霞さんの温かい笑顔が。ほんのばかしあたしを勇気づけてくれた。
……あ、ちなみに例によって安芸家の人々は今日も編集さん以外全員留守なんだとか。
あたしには何が『例によって』なのか、いまひとつ理解し難かったけど。
「嵯峨野さんも……いろいろ頑張ってね、いろいろと。」
「あの〜……なにがいったい『いろいろ』なんでしょうか?」
霞さんの含みのある言い方、ちょっと怖いんですけど。
そう言って、霞さんは駅の方へ向かい、ひとり長い坂道を下りていった。
「じゃあ、俺も少し寝るから。何かあったらすぐに起こして。」
「あ、うん。……そういえばさっきから英梨々が一階の居間を使い始めてるけど、あたしもそこで作業していい? あんたの睡眠を無駄に邪魔したくもないし。」
玄関先で霞さんを見送ると、あたしは編集さんにそのことを確認した。
「うん。そうしてもらえるとむしろ助かる。それじゃあ申し訳ないけど。」
「わかった。あたしも英梨々と下書きをもう少し描き進めたら休憩する予定。」
「あまり、無理するなよ?」
「……あんたがそれを言うか!??」
そう言って編集さんは二階の自分の部屋へ向かい、あたしは英梨々が作業を続けている一階の居間へ向かった。居間の扉を開くと、英梨々は緑色のジャージ姿で作業を続けていた。霞さんを外まで見送りたくなかったのは、そのジャージ姿を近所の人に見られたくなかったからとのこと。
でも、そのジャージ姿で今日この家に現れたよね、英梨々?
「さて。もうひと踏ん張り、がんばりますか!!」
あたしは気合を入れ直すため、ほんのばかしのコーヒーを口に含んだ。
「……あれ? 倫也は?」
「ああ〜、一旦寝るから数時間後に起こせってさ。」
「まぁあいつが起きたところで何かできるわけじゃないし、邪魔なだけだけどね。」
「そうかも。」
あたしと英梨々は小さな声で笑いあった。
そしてまた、あたしの作業……下書きを黙々と起こしていく。英梨々にも手伝ってもらいつつ、この調子で進めていけば、朝までには下書きも全て描き終えるだろう。そんな気がしていた。
「なんか、不思議な感じだな。」
すると突然、こんなことを英梨々が言うんだ。
「ん? なにが??」
あたしはペンタブレットに下書きを描きながら、こう返す。
「あたし、何度も倫也の家でこうやって絵を描いてきたけど、そこにはいっつも恵がいて、いつのまにか夜食が出来上がってて……」
「へぇ〜、そうなんだ〜。」
きっと『blessing software』での出来事だろう。
あたしの知らないそんな賑やかな合宿、いつも話には聞いていたけど少しだけ羨ましかった。
「でも一度だけ、恵のいない合宿をここでしてた頃があって……」
「え、どんな時?」
「あたしと霞ヶ丘詩羽で『フィールズ・クロニクル』をつくってるとき。あいつ、倫也は恵と超絶大喧嘩中で、必死に謝るメールをあたしたちから隠れて書き続けてて……。後ろから見ていて面白かったよ、あの時の倫也。」
英梨々は思い出し笑いが止まらなくなったようだ。
それはどことなく不自然にも思えたけど。
「そんなにおかしいの? 英梨々。」
「なんかね。思い出しただけで懐かしいなって。でも今はなんだかその時と似ているようで、似ていないような気がしててね。」
「それって……今ここに恵ちゃんがいないってことの話?」
「うん。」
そこまで話すと、急に英梨々の笑いが止まった。
「おっと。朝までには下書きを仕上げるよ!! 頑張ろう、真由。」
「……うんっ。」
ちょうど曜日が土曜日に変わった時、英梨々とあたしは今晩の目標をお互いに確認した。
静かな部屋の中で、あたしの耳には時計の針の音が特に響いて聴こえてくる。
黙々とあたしの手伝いをしてくれる英梨々のためにも、あたしは頑張らなくては。
恵ちゃんも、今頃元気してるかな?
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