沙由佳と真唯の打ち上げのしかた

「じゃー真由、あんたの着替えとかはその鞄の中に入ってるから、あとは霞ヶ丘詩羽のこと、頼んだわよ!」

「ちょっと、英梨々?」


 なんだろこのシチュエーション?

 英梨々が車からあたしの衣服が入った鞄を下ろして、そのまま別荘に運び込んで……


「霞ヶ丘詩羽。あたしの義妹いもうとのこと、よろしくね。」

「澤村さん……?」


 霞さんはその可愛らしいエプロン姿の英梨々を眺めながら、ただひたすらきょとんとしているだけで……


「真由の部屋の留守はあたしがちゃんとしっかり見ててあげるから安心してね。」

「英梨々、わかったよ…………って、なるわけないでしょ!!!」


 そして英梨々は、こんな戯けたこと仰るのだ。


「英梨々、あたしのいない間、まさか英梨々があたしの部屋を使うつもり?」

「そんなに怒らなくてもいいじゃん。お義姉ねえさんが大事に使ってあげるんだから、問題ないでしょ。」

「問題おおありでしょ! てか誰が『お義姉さん』だ~!??」


 そう。英梨々はあたしの兄である文雄の車に乗り、あたしの部屋に向かうと言うのだ。

 あたしはこの湘南海岸沿いの別荘で、霞さんと合宿して短編を仕上げるって……うん、確かに言ったよ。でも英梨々はまるでその言葉を待っていたかのように、ずっとエプロンをつけたまま、あたしの兄――正確にはあたしの着替えの到着を待っていたようだった。

 つまり英梨々はそのエプロン姿を、どうしても兄に見せびらせたかったらしいのだ。


 これいったい、何時代のどのお話のどんなシチュエーションだよ……?


「じゃ、お二人とも。喧嘩しないで仲良く。この別荘でゆっくりしていってね。あたしは週末まで文雄さんと……」

「英梨々。その言葉、そっくりそのままお返しするね。兄と喧嘩別れになっても、あたしは絶っ対に無関係だからね!」

「そんなことあるわけないって。じゃ〜文雄さん、『真由の部屋』まで運転よろしくお願いします!」

「おぅ、任せとけ。」


 なんだか夜のはずなのに親指を立てる兄の歯がきらっと光って見えたんだが。

 兄は愛車であるやや小ぶりでちょっとお洒落なオープンカーにエンジンをかけると、英梨々を乗せてびゅんと走り去った。少しだけ懐かしい感じがするレトロなエンジン音が、あたしの耳にじんと残る。

 潮の香りがする。辺りはすっかり真っ暗で、少し遠くに見える海は黒く光って見えた。


「海が、綺麗だね……沙由佳。」

「真唯、何を今さら寝ぼけたこと言ってるのかしら?」


 初夏の夜の冷たい風が、あたしの膝をひしひしと叩いた。


「ここに残されたあたしたちって、一体なんなのでしょうか……?」

「さぁ〜知らないわ。でも週末までにはこの合宿がなんなのか、わかるんじゃないかしら。」


 あたしは気がつくと霞さんにこの別荘での合宿を提案していた。

 その目的は、霞さんのためだったのかもしれない。でも、本当にそれだけだったのだろうか。

 タキくんに推されて霞さんのパートナーとなり、そんな霞さんに近づきたくて大学で文学を学び始め、そこでタキくんや恵ちゃんと出会った。英梨々や『blessing software』のメンバーとも知り合って、あたしはその個性的な面々から様々なものを吸収して学んでいる。

 楽しいだけでは片付かない、そんな複雑な日々、想い――


 霞さんを探す恵ちゃんのあの顔も、本当に初めて見た。

 今の霞さんは、あたしのことを『真由』ではなく、『真唯まゆい』って呼ぶ。

 だからあたしもこの合宿では『沙由佳さゆか』って呼ぶことにした。

 あたしはあのお話の結末の真相にどうしても迫りたくて、そうすることにしたんだ――


「それにしても澤村さん、文雄さんと二人きりにしといて本当に大丈夫かしら?」

「大丈夫だよ。そこはあたしたちが干渉する場所と違うから。気にすることないって。」


 ……このあたしの言葉が全然フォローにもなってないことは当然気がついているけれど。


 ☆ ☆ ☆


 兄が英梨々を連れて帰った夜のうちに、町田さんへこの合宿のことを電話で話した。町田さんからタキくんへ『霞さんは見つかった』という連絡だけは伝わったらしい。ひとまず霞さんの短編、及び『純情ヘクトパスカル』の新作の原稿の締め切りは、この合宿が終わるまでということになった。

 現在の状況から察すると優先度が高いのは短編の方だから、タキくんの待つ『純情ヘクトパスカル』の原稿は今週中には無理じゃないかなという気もするけど、それはタキくんには秘密ということにしておこう。


 恵ちゃんへはあたしからメールでおよその事情を伝えておいた。その返信メールに『英梨々、やっぱりわたしに嘘ついてたんだ……』とあって一瞬ぞくっとしたけれど、でも恵ちゃんと英梨々の関係はその程度じゃ壊れるはずないって、あたしはもうなんとなくだけど理解できていた。

 あたしの大学の授業の方も、後日恵ちゃんのノートのコピーを取らせてもらうという算段になった。恵ちゃんとあたしは外国語の授業も含めておよそ被っているものが多い。だからこんな風にあたしが仕事でどうしても授業に出られなくなった時、わかりやすくシンプルにまとめてくれる恵ちゃんのノートはすごく助かるんだ。

 あとでちゃんと恵ちゃんの大好物のアップルパイ、奢ってあげなきゃね!


 霞さんは黙々と小説を書き、あたしはずっとその霞さんの姿を描き続けた。

 今度の短編のモデルは、霞さん本人だったからだ。

 時に霞さんが書いた途中までの原稿をチェックして、新しい絵の構図を決める。

 あたしはその小説のシーンを書いている霞さんの姿をひとつひとつ描きつつ――

 ……って、集中して小説書いてる時の霞さんはバーサーカーモードそのものでとても絵にできるような姿じゃないけど、そこは霞さんの発狂した独り言のひとつひとつをボイスレコーダーで録音するかのように、その一言一言をあたしのイメージで膨らませて、掴み取るように描いていく。


 そんな作業をおよそ二日間繰り返して、土曜日の夜を迎えていた。

 明日はいよいよ合宿最終日。

 霞さんの小説とあたしの絵は並行作業で進められ、短編の原稿もほぼほぼ仕上がってきた。タキくんの待つ『純情ヘクトパスカル』の最低限ノルマもなんとかクリアできそうだったので、あたしと霞さんは夕食の代わりに、二人で簡単な打ち上げをすることにしたんだ。

 今晩のご馳走は、いつもよりちょっと高めのピザを注文した。後で不死川書店に請求してやろうって、霞さんと二人で話して決めたものだった。


 あたしと霞さんはお互いを『沙由佳』と『真唯』と呼び合いながら、いろんな話をした。

 大学は違うけど同じ文学部というお互いの授業のこと。

 お互いがそれぞれお世話になっている、不死川書店編集部のこと、町田さんのこと。

 そして、恋愛の話。――およそのターゲットは英梨々のことだったけどね。


「英梨々のやつ、兄と本当にうまくやってるのかな〜?」

「あら、それを『他人事だから心配無用』ってばっさり切り捨てたのは真唯の方だったんじゃないかしら?」

「まぁ後で英梨々が泣きついてきたって、あたしは絶対に無関係装ってやるからねっ!」


 ピザを口に頬張りながら、あたしはこう豪語する。

 霞さんはノンアルコールのシャンパンを喉に通しながら、くすっと笑っていた。

 あたしはすっかり失念していたけれど、霞さんってまだ未成年だったんだ。年上であるはずのあたしよりずっと大人っぽいし、その凛々しい姿はちょっと羨ましい。


「でもネットでは真唯のお兄さんって確かとんでもない女たらしって話になってるけど……?」

「あぁ〜。あの噂、沙由佳はどう思います?」

「さすがはネットだけあって、尾ひれの一つや二つくらいついてそうにも読めるけど。」

「それがですねぇ〜……だいたい本当なんです。」


 あたしは思わず吹き出しそうになりながら、霞さんにそう答えた。

 兄のそういう性格は、誰よりもあたしが一番よく知ってるんだ。販売会にも『兄の女』と名乗る女性がもう何人現れたことか、あたしはもう記憶すらできないほどの数だったから。


「本当に澤村さん、大丈夫かしらね?」

「放っておきましょ。……まぁ〜その時が来るまでは。」


 あたしと霞さんはこんな風に談笑している。

 これまでこんなに霞さんと話したことなかったので、あたしにはそれが新鮮だった。

 それはきっと、霞さんが『沙由佳』、あたしが『真唯』を名乗ることで、いつも存在している壁が取り外されているかのようで、今この時間ならなんでも話ができそうな気がしたから。


「でも、澤村さんが言うには『ベッドで泣いていたら文雄さんに優しい声をかけられたから』という理由で好きになったって聞いた気がするのだけど。真唯の兄さんって女性に優しいところもあるんじゃないかしら?」

「うん。兄が女性に優しいのは本当です。だけど、その英梨々の話は嘘ですよ。」

「え、嘘なの……?」


 英梨々め、その話を霞さんにもしていたのか。

 英梨々の頭の中の記憶がどうなってるのか、一度確認してみたい気もするけど、それは今このタイミングではないと思ってるので、あたしはとりあえず放置していた。


「英梨々が『ベッドで泣いていた』というのは本当だけど、それはあたしの『ベッド』のことだし、その時英梨々に『優しい声』をかけたのは、兄じゃなくてあたしですよ。」

「それはもう少し詳しく……是非聞いてみたいわね、真唯。」


 あたしは笑いながら、英梨々と初めて会った夜のことを話す。

 間違って飲んでしまったカルピスサワーで酔っ払ってしまい、兄の文雄に担ぎ込まれてあたしのベッドの上で一晩明かしたこと。その時英梨々はぐすんぐすん泣いていて、あたしのベッドには英梨々の涙の乾いた後がしっかり残っていたこと。

 ――絵描きとしての英梨々と、タキくんと恵ちゃんを追い求めた英梨々の葛藤の話のこと。


「でもその英梨々を見たから、いつかあたしもちゃんと恋愛をしてみたいって思ったのかも。」


 あたしはその話の最後に、そんな言葉を添えていた。


「なるほど。それで澤村さんはその翌日から文雄さんと付き合ってるってことね。」

「うん、そうみたいだね。まさか英梨々が兄みたいな人と付き合い始めるとは思わなかったというか、未だに信じられないんだけどね。」

「真唯は、そう思うの?」

「だって、タキくんとは全然違う性格じゃないですか。タキくんってあたしが言うのも変だけど、兄みたいな華やかなタイプではなく、もっとず〜っと普通で地味って感じがする人だし。だからどうしてもこれまでの英梨々とは結びつかなかったと言うか……」

「あぁ〜……そういうことか。」


 ……え?

 あたしは、霞さ……沙由佳がくすっと笑みを浮かべたのを見て、沙由佳は何かに気づいたんだと察した。あたしはなにかトリガーをひいた?

 すると沙由佳は、あたしの顔の異変にも気づいたらしく、顔を背けてそっとこうこぼした。


「ねぇ真唯。『普通』ってどういうことだと思う?」

「普通…………ですか?」


 その言葉は、確かにあたしがさっき言った単語の一つだった。

 どういう意味なんだろう? あたしは頭を整理させながらその言葉の意味をひとつひとつ紐解いていこうとした。だけど、沙由佳の言う『普通』という単語にどういう意味が込められているのか、その結論に達することはできなかった。

 すると沙由佳は思い出話を話すように、もう一つそこにヒントを添えてきた。


「あの子は、『普通』だから彼を好きになったって……たしかにそう言ってた……」

「え、『あの子』って、英梨々が……ですか?」


 ん? 何か違う気がする。

 英梨々はそんな理由でタキくんのことを好きになったわけじゃない……よね。

 そして、沙由佳は先程の言葉に重ねるように、最後のヒントを加えてきた。


「そしてその彼は……彼は、間違えなく誰よりも『普通』の彼女を選んだ――」

「あ…………」


 そこまで聞くと誰のことを言っていたのか、あたしにもようやくわかった。

 いや、それだけではない。その言葉に含まれる裏の意味も……それは、英梨々のことであって、沙由佳の話でもあるってことを。


 英梨々と沙由佳は、『普通』の彼氏に対して、『普通』の彼女になれなかったんだ――


 そこまで話すと沙由佳はそこで顔を上げて、あたしにこんなことを言ってきたんだ。

 まるで何かを吹っ切ったかのように――


「さて、ここで問題です。『恋するメトロノーム』のメインヒロインである真唯は、彼にとっての『普通』の女の子になれるでしょうか?」


 沙由佳はいかにも意地悪な笑顔で、あたし真唯を明らかに挑発していた。

 その瞳は何一つ迷いがなく、何もかもを悟っているかのようで――

 ……いや、本当にそうなのかはわからないけど、だけどそこにいるのは明らかに沙由佳だった。

 『恋するメトロノーム』のもう一人のメインヒロインである、悲恋の主人公、沙由佳だ。


「だけど沙由佳? その『彼』にはもう、『普通の彼女』がいるんじゃないの?」


 あたしはちょっと躊躇しながら、そんな抵抗をしてみた。


「ふふっ。『普通』ほど恐ろしいものはないわ。たとえ今が『普通』であっても、いつ『普通ではない』生活が訪れるか、わかったもんじゃないから。」


 沙由佳は小さな笑みを浮かべている。

 確かにそうかもしれない。でももしそうだとしたら――


「でももし仮にそうだとして……その『普通の彼女』が『普通ではない彼女』になるときがあったとしても、あたしなんかがそんな何気ない恋愛のできるメインヒロインなんかに、本当になれるのかな?」


 冷静に考えると、途方のない話をしている気もしなくもない。

 沙由佳は本気であたしのこと、そんなメインヒロインのような存在だと思っているのか。


「あなたは私から主人公くんを奪った真唯でしょ。こんなときだけ素に戻っても無駄よ。」

「あたしは真唯……だったとしても、そんな記憶は一ミリもないんだけどね……」

「そうだとしても、あなたは真唯なの。普段は表に出さないけど、内心では強い意志を持っていて、それでいて私たちよりもとびきり明るい、そんな女の子。だから――」

「それ、かなり買いかぶっているような気がするけど……」


 沙由佳はゆっくり語るように、あたしにこんなことを言ってくるんだ。


 それにしても何気ない二人だけの打ち上げが、まさかこんな話になるなんて思いもしなかった。

 沙由佳にそんなこと言われて、少しだけ涙が出そうになった……けど、ここでは我慢する。

 こんな場所でそんなの、絶対に見せるわけにはいかないから――


 あれ……?

 あたしはもっと重要な点を見落としていることに今さら気づく。


「あの〜沙由佳? ひとつ確認させてもらっていいかな?」

「なによ真唯……」

「あたしって、やっぱし『普通の』女の子? ……タキくんにとっての『偉大な』クリエイターではなく?」

「っ。……そ、そんなの、これからのあなた次第よ。」

「今、舌打ちしましたよね沙由佳さん!???」


 まぁそんなの、普段のタキくんの態度を見ていれば沙由佳に今更指摘されるまでもなく気づいてはいるんだけど……。でもやっぱしそれって――


「でもそれが結果的に真唯にチャンスがある理由ってことよ。」

「その素直に喜ぶことのできないフォローもうちょっとなんとかならないんですか沙由佳!?」

「だけどあなた、それについて以前私に宣戦布告したことあったわよね?」

「あ……」


 そういえば……そんなことあったっけ?


『だって、こんなオタク女子に彼氏ができて、それでいて多くの人に認めてもらえる神イラストレーターにでもなれたりしたら、こんな素晴らしいことないじゃん。』


「それをやってのけてこそ、私の思い描く『恋するメトロノーム』のメインヒロインってことじゃないかしら?」

「……なにかとあるとあたしの台詞が全てのハードルをあげる展開、どうにかならないんでしょうか。」


 言い訳なんてできない。だけどあたしは……


 ううん。あたしは真唯だ。

 だからあたしは沙由佳の描く恋の理想を、ちゃんと切り開かなくては。


「ふふっ。やっぱし真唯、普段逃げてばっかりの癖に、たまにはいい顔するわね。」


 沙由佳はやはり意地悪に笑いながら、最後まであたしを挑発してくるんだ。


「あたしはあたしだもん。真唯かもしれないし、そうでないかもしれない。だけどいつまでもくよくよするのはあたしじゃないもんね。それだけよ。」


 あたしは最後のピザの一切れを手に取り、沙由佳の前で頬張った。


 あたしは負けないよ。沙由佳にも、他の誰にも――

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