Early Summer Sea

Lesson6: A Shaken Feeling

恋するイラストの採点のしかた

 ロケハンが終わった翌日。大学の講義を聴き終え、そのすぐ隣の建物にある不死川書店会議室に集まったのは夕方のことだった。

 まもなく初夏を迎える五月の東京は、既に暑ささえも感じさせる。昨日までいた伊勢や名古屋も暖かかったけど、東京がさらに暑く感じられるのは、コンクリートによる熱の反射と、すれ違うのも大変な人の多さのせいかもしれない。

 伊勢も名古屋も、東京ほど人は多くなかったもんね。なんだか急に現実世界へ戻ってきた気分だ。


 それにしても眠い……

 なぜ伊勢・名古屋の翌日に会議室に集まったかといえば、昨日あたしが買ってきたお土産の赤福があるからだ。町田さんが食べたいと言っていたので買ってきたけど、まさか本当にすぐに賞味期限切れになってしまうとは。

 ていうか、このタイトなスケジュールになったのって、ひょっとして町田さんのせい?


「あら。随分お疲れのようね、嵯峨野さん。」

「伊勢から帰ってきたばかりだったけど、数枚だけはちゃんと仕上げてきたからね。」

「あら、急にやる気が出たようね。ロケハンの成果がちゃんと出たってことかしら?」

「だけどそのロケハンの疲れの原因って、まさかの霞さんのせいにも思えるんですけど〜??」

「それは心外ね。私はあなたにスランプから立ち直ってほしかっただけ。そのためには手段を選ぶことができなかったのよ。」

「……あたしにはそれがただ楽しんでいただけのように見えるんですけど、それはあたしの目が節穴だからでしょうか~?」


 昨日、東京駅で解散した後、あたしは伊織さんに呼び止められた。そこで今回の事の顛末を聞かされたんだ。

 あたしが今回のロケハンに同行すると決まった直後、伊織さんのメールアドレスに霞さんの作戦が書かれたシナリオが届いたんだそうだ。宛先は、伊織さんと美知留さん。伊織さんの話によると、霞さんのシナリオ通りに動くだけで、英梨々や編集さんを次々と味方につけることができたらしい。霞さんが2人の性格を熟知しているが故になせる業だったのかもしれない。唯一の想定外は、あたしがその作戦に気づいてしまったことだったとか。

 伊織さんはタキくんとの会話をあたしに聞かれてしまったという事実に、行きの新幹線の中で気づいたんだそうだ。その時はまずいと思ったらしいけど、実際はあたしのどうしようもない振る舞いによって、なんだかんだと作戦通りに事は進んでしまう。その様子は見ていてなかなか面白かったと、伊織さんはけらけらと笑いながら話していた。

 それにしてもあのイケメン、やっぱりどうしたって嫌いだ。


「まぁ実際に十分楽しませてもらったわ。これ、短編集のネタとして十分使えるかもね。」

「ちょっ……。この短編集、あたしまでネタにする気!?」


 あたしの場合のこれって、純愛とか悲恋とかじゃなく、ほとんどラブコメだよね? そんなのネタにされて、恥ずかしくないはずがない。

 むしろ悲しいよ……。


 ちなみに今この会議室にいるのはあたしと霞さんだけ。町田さんは別の仕事があるらしく、もう少しで来るみたいだ。なお、タキくんの方は呼ばれていない。だって、今日の会議は『純情ヘクトパスカル』の方ではなく、霞さんの短編集の方の打ち合わせだから。

 ……ふふっ。今日は女性三人で打ち合わせの方があたしとしてもやりやすいかな。なんとなくだけど。


「前置きはその程度にして、そろそろあなたの絵、見せてもらえないかしら。」

「うん。いいよ。今回はあたしの自信作だから。……時間なかったから後でもう少しだけ直すけどね。」


 あたしは鞄から三枚の絵を取り出した。いずれもロケハンで下絵を描き、そこから仕上げていった絵だ。


 一枚目と二枚目は、英梨々の顔。

 三枚目は、英梨々と編集さんのツーショット。


 ロケハンの中で、英梨々から溢れ出てくるものをキャッチして、そこからあたしがイメージしたものを描き起こしたものだ。英梨々、なんだかんだ言って感情むき出しだったもんね。だからあたしもとても描きやすかったんだ。

 英梨々、ありがとう。


 ……ううん。それだけじゃない。


「ふふっ、調子乗っちゃって。嵯峨野さん、やはり一皮むけたわね。」

「あたしもそう思ってます。だから自信作なんです。」


 今日、こんな絵を霞さんに見せることができたのは、あたし自身が変われたからだと思う。

 『blessing software』のメンバーに会って、あたしはその時間を共有して、たくさん笑って、たくさん泣くことができた。正直、恥ずかしいと思えることばかりだったけど、でもそんな自分の弱さとも向かい合えたし、だからこそあたしも変わらなきゃって思えるようになったんだ。

 そして、編集さん……タキくんにも、正直な自分、今あたしが言えることをぶつけることができた。


 そりゃあね、当然まだまだだってことはあたし自身もわかってる。

 あたしの絵だって未熟だし、あたしは編集さんに宣戦布告をしただけだってことも。


 でも、これが今のあたしの第一歩だってことには、違いなかったんだ。


 そして、立ち止まっていたあたしを後押ししてくれた霞さんにも、ちゃんと御礼を言わなきゃね。

 ……今日は気分的にやめておくけれども。


「ほんとね。ちゃんと描けたじゃない。これも全部TAKIくんへの愛のおかげね。」


 気づくと町田さんも会議室にいて、あたしの絵を確認していた。あたしは町田さんの存在を確認していなかったので、不意打ちをくらった感じになった。

 でも、そのいつもほっとする優しい声に、あたしはさらに自信が湧いてきた。


「でも、その『愛の力』っていうのは何か違う気がするんですけど……?」

「何言ってるの嵯峨野さん。しーちゃんだってTAKIくんの『愛の力』によって作家としてここまで成長できたんだから、次は嵯峨野さんの番じゃない。偉大よね~、TAKIくんって。」

「……町田さん、そこで私まで巻き込むのは止めてくれないでしょうか。」


 霞さんも少し照れた顔している。なんだかちょっと可愛い。


 あたしが机の上に置いていた赤福は、いつの間にか封が開いていて、早速町田さんはそれを一口で頬張っていた。それを見て霞さんも食べ始めている。気がつくと赤福はひとつしか残っていない。

 ……あれ? 赤福って元々何個入りだったっけ??

 あたしは慌てて残りの一個を口に頬張る。

 どこかから舌打ちが聞こえた気もしたけど、多分気のせいだ。うん。


 ☆ ☆ ☆


 霞さんの小説の進捗も良好で、今日の会議は頗る順調に事が進んだ。こんなにスムーズな会議は考えてみれば1ヶ月ぶりくらいかもしれない。

 あたしのスランプの前は霞さんが失踪してたし、そう思えるのも当然か。『純情ヘクトパスカル』もこうやって……よく続いてるよなぁ~一年以上もほんとに。


 あたしは残りのイラストの方向性の確認して、霞さんは短編集の次の作品について話した。

 短編集は全四部作となる予定だそうで、一話目が今あたしが絵を描いてる(通称)英梨々編。二話目は(通称)霞詩子編となる予定なんだそうだ。

 もちろん、読者には誰がモデルなのかはわからないようになっている。一話目の英梨々編もそう。もっとも、あたし以上に謎が多い絵描き『柏木エリ』がモデルと言われたところで、そのモデルの素性がわからない以上、誰もピンと来ないだろう。

 なお、三話目と四話目はまだ未定という。そこは先行して公開される予定の、一話目と二話目の反応を見ながら決めるらしい。


 あたしも今回の霞さんの短編集のイラスト、途中でクビにならないように頑張らなきゃね!


 会議が終わる頃には、窓の外が真っ暗になっていた。時計の針はちょうど20時を指している。町田さんはまだ作業が残っているらしく、とっとと会議室を去っていた。

 あたしも帰ろうと鞄にスケッチブックを仕舞おうとした瞬間、ひらりと一枚の紙が机の上に舞い降りた。

 昨日英梨々が強引に引っ張ったもんだから、留め具が弱くなってしまったのかもしれないな。


「あら、嵯峨野さん。この絵…………?」


 それを拾ったのは霞さんだった。

 あたしはその声に気づき、滑り落ちた絵の方にふと目をやった。

 そこに描かれていたのは、ショートボブの女の子。メインヒロインらしい、素敵な笑顔をしている――


 あたしが一昨日の晩、皆が酔って編集さんを縛り付けた後、そのまま眠りについた時に、ひとり静かに描いたものだった。


「恵ちゃん……」


 あたしは思わず声が出た。

 その絵は確かにあたしがメモ代わりにスケッチしたものだったのだけど、その優しい顔のまま目を瞑る恵ちゃんの表情に、はっとしてしまったんだ。


「あら、あなた。加藤さんの絵まで描いてるの?」

「……あ、うん。ほら、恵ちゃんが書いてる例のシナリオに、恵ちゃんがモデルの女の子も出てくるらしくて。」

「ああ、澤村さんから聞いたわ。そのシナリオ、加藤さんだけでなく、倫理くんや嵯峨野さんまで出そうとしてるんですって? ……あの子、前から痛々しい子だとは思ってたけど、まさか自分で書くシナリオに、自分たちの…………あ、いけないわ。そんな澤村さんが描くようなゲーム、生々しすぎてさすがにちょっと…………。」

「霞さん、そこでそっちの方向に妄想を膨らませないでいいからね。」


 そっちの方向って、どっち?

 ……と、自分で発言しておいてそう思わないこともないことはないけれど。


 ここであたしはふと、霞さんのちょっとした異変に気づいてしまった。

 まるでそれは、何かを笑ってごまかしているかのような、そんな表情にも見えたわけで。


 だって昨日、東京駅で――


「ところで霞さん、ひょっとして前に編集さんと東京駅で何かあったんですか?」


 そう、恵ちゃんの昨日の行動があまりにも唐突すぎたんだ。

 あんな編集さんに対して絶対的な自信を持ってるはずの恵ちゃんが、どうして……?


「そうね、嵯峨野さんには教えておく必要があるわね。」

「あたし……『には』?」


 その言葉に、少し違和感を覚えたけれど……。


「加藤さんの昨日のあれ、きっと私への見せしめでしょうね。」

「うん、そうなんだとは思うんだけど……なんで??」

「それはね、倫理くんのファーストキスを東京駅で奪ったのは、私だからよ!」

「…………へ?」


 なんとなく予想はしてたけど、あたしはなんだか聞きたくないことを聞いてしまったような気分になった。

 なんだろう。やっぱり頭がもやっとする。


「でも話はそこで終わりじゃないわ。だって、それだと辻褄が合わないと思わないかしら?」

「え……? あ、うん。」


 そうだった。その辻褄が合わない箇所があたしの最大の疑問点なんだ。


「あの腹黒い加藤さんが、私にそれを見せつけるためだけに呼び出したなんて、ちょっとおかしいわよね。」

「……恵ちゃんが腹黒いかどうかは置いといて、確かにその辺りは。」


 恵ちゃんって、霞さんが言うほどそんなに腹黒いのかなぁ~?

 ……まぁ昨日の美智留さんは確かに悲惨だったけど。


「ねぇ嵯峨野さん。あの時加藤さんは確か『真由さんの本音があるようにわたしの都合もある』みたいなことを話してたわよね?」

「そうですね…………って、全部聞いてたんですねあのマイクで!?」

「その『都合』って、嵯峨野さんはなんのことかわかる?」

「……ってマイクのことについてはスルーなんですね。いえ、『都合』が何なのかはまだなにも。霞さんは何かわかったんですか?」

「…………いいえ。」

「……………………。」


 霞さんはどこかで見たようなフラットの表情で、さらりと返してくる。

 でも、なにかおかしい。


「んー、でも、少なくともあなたよりはわかっているつもりよ。」

「え……?」


 おそらくあたしはぽかんとした表情で霞さんを見つめている。

 すると、霞さんは一息ついた後、こんなことを言い出し始めた。


「……そろそろ本気で腹が立ってくるわね、嵯峨野さん。」

「え???」

「そう、その反応よ。私よりずっと先へ進もうとしているのに、それにも気づかず『あたしはオタクだから〜』とか言いながら逃亡するとか。あなた、実は私のことを馬鹿にしているの?」

「えぇ〜、なんのことでしょう?????」

「前にも言ったはずよね。私や澤村さんができないことを、あなたならできるかもしれないって。実際、そのとおりに進んできているのよ。あなたはなんでそのチャンスをまったく生かそうとしないのかしら? それができないなんて、あなたはやっぱり大馬鹿者よ!!」

「チャンス……?」


 いや、あたしは全然理解できてない。そんなの、あたしの目の前に本当に転がってるの?

 ひょっとしたら霞さんの言うように、あたしは本当に馬鹿なのかもしれない。

 でも――


「……まぁいいわ。今のは半分私の逆ギレだから、聞かなかったことにしてちょうだい。」


 すると霞さんはその中指で、あたしのおでこにデコピンをお見舞してくれた。

 ……痛い。


 その痛みは、あたしの頭を貫くかのようで、強く響いた。

 あたしはいったい、どうしたら……


「ごめんなさい、霞さん。」

「そこで謝られたらもっと腹が立つのだけど……。あ、短編集の第二話ももうすぐ書き終わるから、そしたらあなたの絵、またよろしく頼むわね。」


 小さな笑みを浮かべながら霞さんはそう言い残して、会議室を出ていった。

 開いたドアから冷たい空調の風が入ってきて、あたしの身体を叩いた。


 短編集の第二話……それは、霞さんがモデルの物語。

 いったい霞さんは自分自身を、どんな風に描いてくるのだろう。

 そんなことを考えながら、あたしも会議室を後にした。

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