Lesson5: Brand New Day
眠気覚ましのコーヒーの飲みかた
眠い。
結局一睡も眠ることなく、朝食の時間を迎えてしまった。
あたしは朝日を前面に浴びながら、海辺に座りひとりでスケッチをしていた。
新しい一日の始まりを告げるあの光景が、まだ頭の中から消滅する前に――
あたしのスケッチブックには二枚の絵が追加された。
ひとつは、あたしが背中に朝日を浴びながら話しかけた、その男性の絵。
そしてもうひとつも――やはり編集さんの顔だ。
あたしはずっと描くことができなかった、霞さんの小説に出てきたもう一人の登場人物を、ようやく描くことができたんだ。
二枚の絵を描き終えて、そのままぼおっと海を眺めていたら、まもなく朝食という時間を迎えていた。朝食の前にせめて着替えたい。あたしはまだ服に付いたままだった砂利を払い、いよいよその光を強めようとする朝の日差しを背中に浴びながら、宿に戻った。
部屋に戻ると、英梨々がぐたんと横になり、すやすやと眠っていた。英梨々のすぐ横には、鉛筆が挟まったままのスケッチブックが転がっている。でもなんだかそれは見た目的にちょっと違和感があって、まるでついさっきそのページを閉じたみたいだった。
……英梨々。ひょっとして、狸寝入りじゃないよね?
それにしても、こんな英梨々の寝顔を見たのは、初めて会ったあの日以来だね。
あの日は、兄に担がれてそのままあたしのベッドに放り込まれた。髪はもうぐちゃぐちゃで、顔はずっと泣き顔だった。でも今日はそれとは対照的で、すごくいい顔してる。強い意志がしっかりあって、たとえどんな困難な状況が目の前にあっても、それでも力強く乗り越えてしまいそうな、そんな表情。
初めて会ったのはつい一ヶ月前の話だよね。あれからいろんなことがあって、あたしはその英梨々の泣き顔の理由も、今のいたずらに強気な寝顔の理由も、ようやくわかった気がする。
だから今日は、ちゃんと英梨々の顔を描いてあげなきゃ。
それまでもう少しだけ、待っててね。
「英梨々。朝ご飯の時間だよ。」
英梨々は待っていたかのようにすっと起き、目をぱちくりさせながらあたしの顔を見つめている。
あたしは英梨々の顔を見てはっとなる。どうやら何かに気づかれてしまったみたいだ。
というより、やっぱり起きてたよね、英梨々。
☆ ☆ ☆
「なるほど。やはり嵯峨野さんは霞先生のベストパートナーのようだね。」
今朝の宿の朝食は、トーストと玉子焼き、そしてサラダが複数の小皿に分かれて盛り付けられていた。そんな朝食を食べつつ、あたしをじろじろ見ながらそんなことを言ってくる男性。
波島伊織。
この人と今まで話したことはほとんどなかったけど、『blessing software』プロデューサーというだけのオーラを感じている。確か以前はあの紅坂朱音の下で、『rouge en rouge』代表を務めたこともあるんだよね。
だけど、恵ちゃんに聞いても英梨々に聞いても、どうしても伊織さんには苦手意識を持ってるようだ。英梨々についてはその理由はなんとなくわかるんだけど、あの恵ちゃんが苦手意識を持つとか相当だよね。昨日だって会話している様子が全くなかったし。編集さんはともかく、この2人が『blessing software』を裏で支えてると言われても、あたしにはどうやったらこのサークルがここまで見事に回転するのか、理解し難かった。
「あの〜、どういったところが『霞さんのベストパートナー』なんでしょうか?」
そしてこの見透かされたようなあたしの評価に、当然の疑問をぶつけてみる。
「そうだなー。霞先生も嵯峨野さんも、その本質が『乙女』であるという点かな。」
「………………………はい?????」
その評価、あたしはどう受け止めていいのかさっぱりわからないんですけど……。
「ねぇお兄ちゃん。それ、聞き方によっては霞さんと嵯峨野さん以外『乙女じゃない』とも聞こえるんだけど?」
伊織さんのすぐ横に座っている出海ちゃんがすかさずツッコミを入れた。
なお、このテーブルに座っているのはあたしと波島兄妹の3人のみ。他のメンバー4人はもう一つのテーブルで朝食を食べている。なんで今朝のスタートはこんな組み合わせになったのかはよくわからないけど、伊織さんとは初めてこうやって会話しているので、それはそれでよしかなと思ってる。
それにしても、あたしと霞さんが『乙女』って、やはりどういう意味なのかよくわからない。
「出海には恋愛はまだまだ程遠いという感じだろ? 氷堂さんもあんな感じだし。それとは逆に、柏木さんや加藤さんはもっと……。」
「ひどいお兄ちゃん。やっぱりわたしのこと子供扱いしてるじゃん!!」
いや、あたしにはその後の、英梨々と恵ちゃんの話を省略した部分のほうが気になったけど、それはそれで聞くのは怖いので、それ以上は聞かずにするっと流すことにした。
「それで、あたしと霞さんが『乙女』というのは、結局どうしてなんでしょ?」
「うーん、2人とも少女コミックのような、まっすぐな『恋』をしているところ?」
「……………………。」
……ってやっぱしそれ、霞さんとあたしを2人揃って子供扱いしてませんか!??
「あ、そんな怒ったような顔しなくてもいいって。それってひとつの魔力に近い魅力でもあるし、それこそが2人の作品『純情ヘクトパスカル』の本質だろうし。」
「『純情ヘクトパスカル』の本質……ですか。」
あたしは相変わらずどう受け止めていいのかよくわからない。恐らくそんな顔を伊織さんに見せていた。
「うん。あの作品は恐らく嵯峨野さんと霞先生にしか描けない、そんな作品なんだと思うよ。」
伊織さんはそのイケメンの笑顔で、にこっと返してくる。
「それって……褒められているんでしょうか?」
「さぁね。それを評価するのは僕じゃないよ。『純情ヘクトパスカル』を読んでる読者じゃないかな。」
「…………そっか。」
伊織さん、もっともなことを言ってる…のかな。さすが大手サークルの代表を歴任してるだけのことはある。
……何もかもがはぐらかされて、ちょっとイラッとするのは否めないけど。
…………ん?
いや、あたしはもっと根本的につっこむべきところに気づいてしまった。
というより、なんでもっと早く気づかなかったんだろう。寝不足で疲れているんだろうか。
「今更なんですけど伊織さん?」
「ん、なんだい? 嵯峨野さん。」
「あたしが少女コミックのような『恋』をしているって、一体どういうことなんでしょう?」
「…………。」
「…………。」
「………………え、嵯峨野先生、誰か好きな人がいるんですか???」
と、一瞬の沈黙があった後、それを破ったのは出海ちゃんだった。
あたしは単刀直入にそれを聞かれて、どう答えていいのかよくわからない。
それこそまるで、『少女コミック』の1シーンのような、そんな会話。
だけど、オタクなあたしはそんな風に聞かれたのは実は初めてで、その質問の受け止め方がよくわからなかったんだ。素直に答えるべきなのかも、うまくはぐらかすべきなのかも。
だって、今でもあたしがオタクなのには変わりないもん。いきなりそんなこと聞かれたって、答えられるわけないじゃん。だからあたしの頭の中は、今迷走の真っ只中にいる。
でも、本当の答えはひとつだった――
それは当然、あたしも気づいている。
「……まさか嵯峨野さん、それを秘め事のように隠し通せるつもりだと思ってたの?」
「えっ……。」
……なるほど。恵ちゃんが伊織さんを苦手にする理由がよくわかったよ……。
ちなみに出海ちゃんはというと、子犬のように目をぱちくりさせて、きょとんとした顔で伊織さんとあたしの顔を見比べていた。どうやら伊織さんの話に、出海ちゃんの方はついていけてなかったようだ。
あたしはそれを見てちょっと安心し、ふっと笑みが溢れる。
「でも僕は霞先生と嵯峨野さんの『純情ヘクトパスカル』、面白いと思ってるよ。」
「……それはどうも。」
「嵯峨野さんの真っ直ぐに可愛い絵も素晴らしいけど、霞先生の妄想まっしぐらなストーリー展開も最高だよね。巻の中盤までぐいぐい読者を引き込んでいったと思ったら、突如終盤で新しいヒロインが現れてさらに話を壊していくし。」
「そのヒロインが出てくる度に納期が心配になる絵描きがここにいるんですけどね!!」
霞さんの処女作『恋するメトロノーム』は真唯と沙由佳の2人が主なメインヒロインだったのに対し、学園ラブコメである2作目『純情ヘクトパスカル』は次々と新しいヒロインが出てきて、主人公くんを惑わせるんだ。まさにそれは霞詩子の真骨頂とも言うべき、読者を振り回す魔力であることに違いない。
それに振り回されるのは読者だけじゃなく、絵描きであるあたしも一緒なんだけど。
「霞さん、今頃何してるかな〜?」
そんな日々をふと忘れさせる素晴らしい朝。
窓に見える海の向こうを眺めながら、あたしはぼそっとそう溢した。
「海、綺麗ですね。霞ヶ丘先輩も来ればよかったのに。」
「霞さん、原稿溜まってて忙しいって言ってたからなぁ。」
そもそも霞さんの代わりで、『blessing software』とは本来無縁のあたしがここにいるわけだしね。あたしはこのロケハンでかけがえのない経験をさせてもらってる。だから霞さんには感謝しなくては。お土産もちゃんと用意しておかなくちゃ。
「まぁ昨日のあの展開は原稿どころじゃなかったろうし、今日は霞先生も大人しくしてるだろうね。」
伊織さんもそれに付け加える。そう、霞さんの原稿が終わらないと、その次のフェーズであるあたしの絵も描くことができないんだ。あたしが後で納期に追われない程度には、書き進めてもらわないとね。
そしたらその次は、新しいあたしの最高の絵を、そこに添える番だから。
……ところで、『昨日のあの展開』ってなんのことだろう?
あたしは朝食の締めのモーニングコーヒーを戴く。
甘い香りはあたしの鼻を包みこみ、喉を通り過ぎてく熱いコーヒーは眠気覚ましにはちょうどよい。
今日もまた、新しい一日が始まろうとしている。
それは、いつもと同じようで、違う朝。
霞さんに戴いた幸せなひとときを、ちょっと甘くて苦いコーヒーと一緒に、あたしは味わっていた。
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