スランプな作家の慰めかた

 『純情ヘクトパスカル』の打ち合わせは、結局1時間ほどで終わった。時間としてはいつもより短い方だったと思う。それというのも、あたしが『純情ヘクトパスカル』のメインヒロイン、アンジェを描くことができなかったこと、だけでなく、霞さんも『純情ヘクトパスカル』の方はほとんど全然書けてないことが原因だった。

 確かに、GW中にメールで送られてきた原稿は、短編集の方の原稿だったもんね。『実はこっちはもうできているの』みたいな話であれば、霞さんはとっくにあたしや編集さんのところに原稿が届いてたはずだ。


 そんなこんなで、『純情ヘクトパスカル』の打ち合わせとしては、過去に経験したことのないほど、低調な進捗ぶりだった。霞詩子の新しい原稿を誰よりも早く読めることを楽しみにしていた編集さんは、しょんぼりした顔で会議室を後にした。そういえばあたしたちのせいで、今日はあの編集さん、踏んだり蹴ったりだったかも。後でアイスコーヒーでも奢ってあげようかな?


「そんなアイスコーヒーを奢ってあげようとしたってムダよ。倫理君を手慰めるにはまず私達が作品つくって、こっちを振り向かせるの。きっとあの消費豚は尻尾をぶんぶん振って、私達の下僕に成り下がるわ。」


 と、コーヒーを啜りながら何食わぬ顔で答える霞さん。いや、あの編集を下僕にしたいとか、あたしにはそういう興味は1ミリもないのですけど。……てゆか今、あたしの顔から心の中を読んだの?


 ちなみに、霞さんとあたし、町田さんは、会議室に残って、例の短編集の打ち合わせをすることになった。霞さん、こちらの原稿はひょいとGWに送ってきたけども、あたしはといえばやはり進捗なし。

 そりゃ金髪ツインテールというだけのアンジェすら描けてないんだもん。英梨々がそのまんまモデルの短編集のイラストなんて、描けてるはずなかった。


 なんで描けないんだろ?

 描いても描いても、それはあたしが求めている絵には程遠くて、まるで紙やタブレットにではなく、空の中にイラストを描いてる気分だった。空に描くイラストは形として残るはずもなく、描いていくその瞬間から、そのまま空中分解してしまう。


「あのー、霞さん。………ごめんなさい!」

「私に謝られても仕方ないわ。むしろ今まで嵯峨野さんが順調に行きすぎてたんじゃないかしら?」

「まぁ詩ちゃんの話はもっともね。詩ちゃんと違って、嵯峨野さんは今までこんなことなかったものね。」

「そう……だったでしょうか……?」


 町田さんの優しい笑顔に安堵し、あたしはほっとした顔をしてしまったかもしれない。


「……でもね嵯峨野さん、謝るのは詩ちゃんにじゃなくて、編集である私に対してだと思うんだけど、どうかしら?」

「ご、ごめんなさい!!!」


 ……が、その安堵はやはり誤りだった。稀に見かける大人気ない町田さん……じゃなくて、今日締め切り守れなかったのはあたしの方なんだから、これはもう言い訳できない。


「それで嵯峨野さん、後どれくらい待てば描けそうかしら?」


 どれくらい…………?

 描けない理由もわかってないのに、あたしに答えられる答えは持っていなかった。


 どうしよう。何も答えることができない。

 あたしが黙っている間、ただ重苦しい時間だけが流れていく。


「あら。それすら答えることができないと言うの?」


 霞さんが呆れた顔で見る。あたしはまるで蛇にでも睨まれた蛙のようだ。


「すみません。あたし、今までこんなこと、あまりなくて。」

「そしたら私と町田さんはどうやって待てばいいのかしら?」

「今は……ただ、もう少しだけ時間が欲しいのですが……。」

「それって、本当に時間が解決してくれるの? 私には無駄な時間だけが過ぎてく未来しか見えないのだけど。」

「でも、今よりはいいものが描けると…………たぶん?」

「時間があれば今よりいいものが描ける? 本気でそれを言ってるの? あはははははははははははは…………」

「……あの、霞さん…………?」


 霞さんはいよいよ狂気の顔になり、大声であたしを笑い飛ばした。


「なめてんじゃね〜よこのヘタクソ! 突然スランプだとか、絵描きナメてるのか?」


 霞さんの怒声が不死川書店の会議室に響く。

 それはまるで何者かが乗り移ったかのようで、黒い大きな影があたしを襲い掛かってくるようだった。


 悔しい。

 ……でも、ごめんなさい。

 あたしはもう、泣き出しそうだ。


「そこまでよ、詩ちゃん。嵯峨野さんをからかうのは、それくらいにしておいてあげなさい。」


 町田さんの声に反応して、霞さんは『ちっ』とでも言いたげな顔に戻った。

 ……え、からかう?


「だって、嵯峨野さんのしゅんとした顔見てたら、なんだか虐めたくなってしまったんだもの。」

「だからってあかねのモノマネとか、ちょっと趣味が悪すぎるんじゃないかしら?」

「だって、いつかあいつのモノマネしてみたいって、ずっと思ってたんだもの。」


 モノマネ? 『茜』って…………あ〜紅坂朱音こうさかあかねか。

 あたしは猛烈な脱力感に襲われた。冷静に考えたら原稿が遅れているのは霞さんも一緒。そんな霞さんにここまで罵られる謂れは確かにないのかもしれない。

 さっきの言葉、ものすごくぐさっと刺さったのは事実だったけど。


 というか、あたしの泣き顔返してよ!!!


「……というわけで嵯峨野さん。さっきの言葉であの泣き虫ポンコツ娘はスランプから立ち直ったわけだけど、嵯峨野さんが立ち直れるかどうかは、あなたしだいね。」

「…………はぁ〜。」


 なるほど。これを実際に紅坂朱音から言われたのは、英梨々だったんだ。

 英梨々って、『泣き虫』とか『ポンコツ』とか言われてはいるけど、実はものすごい修羅場を潜っているんだね。人は見かけによらずというか、『絵描きの英梨々』と『実際の英梨々』でギャップが激しすぎて、それを踏まえるとあの子は本当の天才なんだなって思わず納得してしまう。


 でも、そこに英梨々の本当の強さがあるのかもしれないな。

 あたしがまだまだ知らない、英梨々の光と闇の部分。

 それをあたしはちゃんと受け止めていかなくては……。


「でも、時間が経てばスランプを脱せるというのは、正直疑問しか抱かないわ。どう考えたってそんなの時間の問題ではないもの。」


 穏やかな顔に戻った霞さんは、それでもこんなことを言ってきた。


「じゃ〜どうすれば……?」

「そうねー。ヒントになるかわからないけど、GWに迷惑かけたお詫びとして、嵯峨野さんにプレゼントをあげるわ。」


 そう言うと、霞さんは鞄の中から、メールが印刷されたものが一枚。

 差出人は、今日はもう帰ってしまったあの編集さん。そこにはこんな文字が書いてある。


 『伊勢・名古屋のロケハン 1泊2日 〜blessing software〜』


「ロケハン……ですか?」

「そう。今年の『blessing software』は日本神話をベースにしたゲームを制作しているらしくて、今週末に伊勢へロケハンすることになったらしいの。それで倫理くんからOGである私宛にも届いてたんだけど、私はちょっと別の用事が入っててね。倫理くんにそのことを相談したら、人数余っちゃうから嵯峨野さんを誘えたら誘ってみてと頼まれちゃって。」

「……ということは、このロケハンにあたしを誘ったのはあの編集?」

「ま、そういうことになるわね。」


 ……あれ? 気づくと机がどどどどって揺れてるんですけど…………。

 よくみたら霞さんの顔が、また先程の鬼の顔に戻ってしまいそうな勢いだった。

 霞さん、見境なく貧乏ゆすりするの、いい加減止めてください。


「でもあたし、『blessing software』に関わったことないし……。」

「そこは気にする必要ないんじゃないかしら? 私にも届いたってことは、あの泣き虫ポンコツ娘のところにもメールが届いているだろうし、それに加藤さんとか出海ちゃんとか……嵯峨野さん、前に出海ちゃんにも会ったことあるって言ってたものね?」

「波島出海ちゃん!?」


 ちょうど一年くらい前だっただろうか。自称『スランプ』を名乗っていた出海ちゃんに出逢ったのは。

 出海ちゃんは『ある人』の影響を受けたくなくて、必死にもがきながら絵を描いてて。

 でもそれは本人が自覚する以上にすっごく可愛くて、前向きで。


 あの時、兄から渡された出海ちゃんのコピー本は、今でもあたしの宝物になっている。

 出海ちゃん本人は恥ずかしいとか言いそうだけど、それでも素敵な本だった。


「行きたい! ……行っても、いいのかな?」


 あたしは素で、そう思った。

 伝説の同人サークル『blessing software』のロケハンに同行できるなんて、これは新しい自分の絵を見つけられるチャンスかもしれない。胸がものすごく熱くなっているのが、自分でもよくわかった。

 それにしてもあたしって、いつのまにか『blessing software』に知り合いだらけになってたな。それは神の悪戯なのかもしれないけど。


「ええ。その代わり、あのポンコツ娘の最っ高の泣き顔を、伊勢エビ食べながら描いてきてね。」

「了解っ! ……まぁ伊勢エビが食べられるとはとても考えにくいけど。」


 主に予算的にだけどね。


「あ、お土産に『赤福』買ってきてね。でもあれ、賞味期限厳しいから、名古屋駅で売ってるものでいいわよ。」


 と、町田さん。伊勢と言えば『赤福』。でも最近では名古屋駅でも売ってるので、もはやどこのお土産だかわからない気もする。それでも、あたしも甘いもの大好きなので、まだ食べたことのないそれを一度食べてみたかった。名古屋なんて滅多に行くことないしね。


「そしたら、絵の方の締切は……?」


 あたしは恐る恐る町田さんに確認する。


「今がGW終わったばかりだから……そうね〜、短編集も『純情ヘクトパスカル』も、遅くとも今月中であればなんとかなるわ。」

「はいっ。」


 絶対そこまでにはなんとか描き上げてみせる!!


「わかったわ、町田さん。今月までに『原稿』を……。」

「い〜え。詩ちゃんの方はこれまでの仕事たんまり溜まってるので、再来週まで。今度こそ逃さないわよ!!」

「……っ。」


 ちゃんと霞さんにもお土産買ってきますから。


 ありがとうございます。町田さん。霞さん。

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