第11話 アイリッシュコーヒーと個展とカフェネーム


 黄昏から宵闇へ。


 宵闇から夜のしじまへ。


 ピアノからピアニッシモへ、ピアニッシモからピアノピアニッシモへ、すすり泣くようにBGMはデクレシェンドを辿り、やがて店内は静まり返った。


 カフェオレボウルを両手で抱えて、私は顔をうずめる。

 コーヒーとミルクが、まろやかに溶け合っている。


 カフェオレボウルを置いて、カウンターでコーヒーをいれているオリオンさんを眺める。


 オリオンさんは、銀色の口の細いドリップポットを高く掲げて、ネルドリップサーバーにお湯を注いでいる。

 ぴんと伸びた背筋、すっと伸ばされた腕、きちっとした白シャツの袖口からのぞくやわらかな手首。

 仕草の全てがスマートだった。


 人の気配以外の無音の空間を、カウンターでいれているコーヒーの香気が、立ちのぼって流れていくのが見えるようだ。


 その香気を深く吸い込むような仕草で、鼻をひくりとうごめかせてから、スエナガさんが立ち上がった。

 スエナガさんは、おもむろに咳払いをすると、語りだした。


「そうだ、個展を開こう。私は、個展を開くぞ」


 唐突な宣言だった。


 スエナガさんは、テーブルに置かれた、背の高い耐熱グラスに入ったアイリッシュコーヒーをぐっとあおると、カウンターに向き直った。


「オリオンさん、どうだね、ここで個展を開かせてくれないかね」


 スエナガさんの声は、奇妙な自信にあふれている。

 大成功した個展の後の祝賀パーティー気分の勢いが、溢れている。

 どこから来るのかわからない自信は、自尊心が高い人の証だ。

 スエナガさんは、自分の作品に誇りをもっているのに違いない。

 それは、すなわち、自分に誇りをもっているということだ。

 ……。


「そうですね」


 オリオンさんが、眼鏡の縁に指を当てて、目をしばたたいた。


「個展にオープニングパーティーは付きものだからな。よし、きみたちには、アトラクションを披露していただこう」


 オリオンさんが答える前に、スエナガさんは、すっかり乗り気で話を進めていく。

 アイリッシュコーヒーで酔ったのだろうか。

 アイルランドの妖精クレラコーンが、いたずらをして、ウィスキーの量を増やしたのかもしれない。

 このカフェならそういうものがいてもおかしくない。


「個展、ならば、朗読会もいいですか。詩を書きためたものがあるのです」


 詩人の青年が、おずおずとたずねた。


「詩の朗読ですか。いいですね。スエナガさんの個展にふさわしいと思います」

 

 オリオンさんが言った。

 どうやら、個展の開催に前向きなようだ。


「では、ぼくたちは、パフォーマンスを」


 フェザリオンとティアリオンが、二人揃って楽しそうに言った。


「パフォーマンス? 手品とか? まさかのアクロバット?」


 二人はにこにこしながら、人差し指を唇に当てて、


「ないしょです」


 と声をそろえた。


「ネズさん、あなたは何をしてくださいますか」


 オリオンさんが、にこやかに言った。


「え、ネズ、って、確かに柏と槙で杜松ねずだけど、その呼び方は、ちょっと……」

「カフェネームということで、いかがでしょう」

「はい、あ、それってペンネームとか芸名みたいなものですよね、はい、でしたらネズで」


 オリオンさんの一押しで、カフェネーム“ネズ”を承知してしまった。


「では、改めまして、ネズさん。スエナガさんの個展のお手伝いをお願いできますか。もちろん、アルバイト代はお支払いします」


 唐突に視線の集中。


 何をすることを期待されているのだろう。

 考える。

 アルバイトと言われて、自分ができることを探す。

 それにしても、ちょっとおもしろそう。

 個展なんて、自分の日常にはないイベントだ。


「え、わたしは、えっと、宣伝、宣伝します。ビラ配ったりとか、宣伝サイト作ったりとかだったらできると思います。そう、それから、個展で売れた作品のお代の一部は、すい星へ帰るための資金として、二人に寄付したらいいんじゃないでしょうか」


 その場のノリでの提案にしては、まあまあかな。


 ところが、


「それは、だめだ。彼らに帰られてしまっては、われわれの創作の源は枯れてしまう」

「枯れてしまいます」


 スエナガさんと詩人の青年が、そろって反対の声をあげた。


「失われたもの、去りにしものを惜しみ追慕し讃えるっていう、クリエティブな作品もあるんじゃないの」


 ついむきになってしまった。

 自分の言葉ではない言葉を使ってしまった。

 美学だったか文学論だったか、聞きかじりのことをつい……決まり悪いな。


「そうですね。この二人は実は私に借りがあるので、その借りを返すまではここにいてもらわなければならないのですよ」


 おっとりとオリオンさんが言った。


 そのひと言で場はまとまった。


「では、個展に向けての準備の打ち合わせを、今度の日曜日にしましょう。ランチをご馳走します。お食事をとりながら意見を交換しましょう」


 オリオンさんの提案は素敵だった。


 いつもは一人でごろごろしてるか、ぶらぶらしてるかの所在ない日曜日が、約束のある日曜日になると思うと気持ちが浮き立ってくる。


「お料理美味しいので、ランチをいただけるのは、とってもうれしいです」


 心の底から、声が出た。


「ありがとうございます」


 オリオンさんがていねいにお辞儀をした。

 フェザリオンとティアリオンも、それに倣った。


 日曜日が待ち遠しい!



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