(8)魔風

「だめよ。本当にだめよ。力がなくて弱い者は! もう、こんなのは嫌。こんな思いをするのは嫌っ……」


 光華の悲鳴ににも似た叫びが、嗚咽混じりの小さなささやき声へと変わっていく。

 清月がその場に黙して立ったまま、光華のいう言葉に返事をしないせいか、清月の肩を打ち続けた小さな拳は、力が失せたように次第に弱くなっていった。


「……」


 ついに光華は拳をだらりと下げると、のろのろとうなだれていた頭を上げて清月を見上げた。

 しかし薄闇に浮かんだ清月の顔は、能面のように血の気が失せて硬く冷ややかで、整った形故に、心を持たない人形がそこに立っているようだった。


 やっぱり、そうなんだ――。


 光華は込み上げてきた黒い絶望感を抱きながら、おずおずと清月から離れた。


「こんなこと言ったって、あ、あなたには……『紫嵐隠密組』のあなたには、関係ない話よね。普通の人間には扱えない力を持っているあなたには……恐れるものなんて何もない。結局世の中は力のあるもの、強いものだけが生き残る。私達のような弱者は、あなたからみればちっぱけな虫ケラよ。そんなちっぱけなものが一人でわめいた所で……わめいたって……」


 光華は清月から視線を引き剥がすように顔をそむけた。

 自分が何を言っても清月は聞いていないような気がしたからだ。

 それを思うと、再び目元がうるんでくる。光華は涙を浮かべる自分が悔しくて、無理矢理拳で拭った。先程地に伏せたせいか、泥が頬に付いていたのだろう。こすると砂の粒が食い込む小さな痛みが走る。


「光華殿」


 ようやく清月が抑揚のない声で名前を呼んだが、光華は背を向けたままその場に立ちつくしていた。


「光華殿。お主が私の『力』を持つことができたとしたら、お主はこれから一体どうする――?」

「えっ」


 予想もしない清月の言葉に、光華はふらりと振り向いた。

 一歩、二歩。

 思わず影のように見える清月の方へ歩き出す。


「そんなの……」


 唇を噛み締める。無惨な斬撃の傷口をさらした河太郎の遺体が、傍らに転がっているのを見つめながら。


「そんなの決まってるじゃない。ここにいるすべての九十九衆を滅してやるわ。そして……」


 光華ははっと両目を見開いた。

 河太郎と五月を救う事はできなかった。でも、まだ従姉妹の夕香と副頭領の左太郎がいる。二人はこの通路に九十九つくも衆を入らせまいと、今必死で戦っているのかもしれない。


「せ、清月さん。本当に私もあなたみたいな力が使えるようになるの!? ならそれを早く教えて! 今なら夕香ゆうか姉さんと左太郎さたろうを助ける事ができるかもしれない」

「光華殿。お主に私の力を使う事はできない」

「――!!」


 光華の頬が怒りのせいで朱に染まる。


「だったら、なんでそんなことを言うんです。私はてっきり……!」

 ひやりと、氷の表面を思わせる清月の暗紫色の目が光った。


「私が言いたかったのは、『力』で九十九衆を滅すれば、お主はこれからも、逃避行の生活を送ることになるということだ」

「それは……」


 清月の言うことの意味がわからず、光華がその瞳をにらみつけたその時。

 清月がおもむろに左手を伸ばして光華の腕をつかんだ。


「なっ、なにを」


 黒い着流しの袖をひらめかせて、清月が自分の背後へ光華の体を引っ張る。

 光華はよろめいて地に再び膝をついた。

 同時に周囲の気温が、まるで氷室の中にいるかのようにぐんと下がる。

 はっと顔を上げたそこには、眉間に緊張を走らせた厳しい清月の横顔と――。

 後方へ伸ばされたしなやかな右手が、青白い微光を縁取りのようにまとわせていた。その手を囲むように、ふつふつと小さな氷の粒が中空に浮かび上がっている。


「氷、月、刃!」

 囁くように吐き出された清月の声と共に、その小さな氷の粒は何時の間にか、鋭利な刃へと形を変化させ、右手前方の通路の闇へと飛び込んでいる。


「ぐはっ」

「ぐおっ」

 一陣の冷たい風が清月の長い漆黒の髪を乱したかと思うと、荒寺の裏手に通じる暗き通路から、複数の苦悶の声が木霊した。


「九十九衆……!」


 清月の放った氷の刃に胸をさし貫かれた黒い骸が、ごろりと地に倒れ伏すのを光華は見た。その数、五人。


「あの道はもう使えないわ。九十九衆がぞろぞろ入ってきてる。清月さ……」


 清月は前方を見据えながら、小さく咳き込んでいた。

 肩に流れ落ちる黒髪の合間から見える額には、頭から水でもかぶったように汗で濡れている。目の下も先程にはなかった黒い隈が浮いている。


「まったく……こんな時に……」


 清月が左手で着流しの袂を掴み、荒くなる呼吸を整えている。

 明らかに具合が悪そうだ。


「あの、大丈夫?」


 光華は思わず口を開いた。すると清月は唇を噛みしめたまま、ゆっくりと頭を振った。


「……どうやら、お主に盛られた薬のせいで、気の流れを乱されたようだ。術の発動が遅い上、反動がいつもより酷い。まったくもって……最悪だ」

「……! あ、わ、私……」


 光華は何とか弁解しようとした。

 だが清月は光華に見向きもせず、九十九衆が現れた通路に向かって歩いていく。


「清月さん、そっちは駄目よ。九十九衆が……」


 清月は自らの術で屠った九十九衆の屍の前で膝をついた。

 右手を伸ばし、何やら男の顔をのぞいているようだ。


「……光華殿」


 長い息を吐いた清月が、ふと後方を振り返り手招きする。


「な、何?」


 通路から九十九衆の新手が現れないだろうか。それに内心どきどきしながら光華は清月の方へ近付く。


「光華殿。先程、私が言った言葉を覚えているか?」


 清月は振り返ることなく、その場に膝をついたままだ。

 光華は九十九衆の死体に眉をひそめ、嫌悪感で込み上げる吐き気を抑えながらうなずいた。


「『力』で九十九衆を滅すれば、これからも私は、逃げ続けなければならないってこと……?」


 何も答えず、ゆらりと清月がその痩躯を立ち上がらせた。

 右手で死体の頭部を指し示しながら。


「これを」


 光華は口元を抑えつつ、清月の傍らに立ってのぞきこんだ。

 男は目をかっと虚空に見開いたまま、口から糸血を流し絶命している。だが清月が指し示しているのは、その口の中。

「!」

 青黒く変色した舌に、何やら奇妙な文様――文字が入れ墨のように入っているのが見える。丸い円の中に、何を表すのかわからないが、燃え上がる炎のような忍び文字らしきものが、一文字だけ。

 忍び文字は共通のものもあるが、大抵は仲間内の暗号として使われるため、流派が違えばその形や意味もまったく違うものとなり、読むことができないのだ。


「えっ。この忍は……この忍は九十九衆じゃないわ」


 光華は驚きながらそうつぶやいていた。

 九十九衆とは仕事場の縄張りが違うため、表立って面識はなかったが、こんな悪趣味な文様を舌に刻印する習慣はない。


「そう。この者は――私を追う者達だ」


 辺りは気味が悪いほどしんとしている。その静寂の空気を震わしながら、清月の低い声が響いていった。


「それって、どういう意味なの? 何で、清月さんを追う忍が、九十九衆の格好をしてここにいるの? 何で……」


 はたと気付いたように光華は隣に立つ清月の横顔を見上げた。


「何故あなたが追われているの? あなたは私とは違って、強い『力』を持っている……」


 清月はその青白い顔を曇らせて、困ったように肩をすくめた。

 さらりと長い黒髪が揺れて、その面が薄い唇を残して隠れる。


「何も、力のない者だけが、虐げられるのではない。私のように、人智を超えた力を持つ者もそうなのだ。現に光華殿、お主も私の力を欲したように、私の力を利用したいと思う連中はごまんといて、私はそいつらから身を隠しながら生きているのだ」

「あっ……」


 光華は込み上げてきた胸のわだかまりに息がつまりそうになった。


「だから、光華殿」


 清月は再び面を上げて光華を見下ろしていた。

 凪いだ湖面のような静かなまなざしで。


「私はこの力が、お主に必要だとは思わない。だが私は、お主に謝らなければならない」

「えっ?」


 意外な清月の言葉に光華は若葉色の瞳をしばたいた。

 それはどういうことなのか、清月に訊ねようとしたその時、地下通路内に耳を覆いたくなるほどの大きな爆発音が響いた。



◇◇◇



 まもなく夜明けを迎える藍色の空に、一羽のふくろうが羽根を広げて飛んでいた。月にも似た金色の瞳は、竹林の生えた山間の空き地に、苔蒸した屋根を頂く荒寺を中心に、油断なく注がれている。


「だから言ったんだ。今回の仕事は蹴ったほうがいいって」

「しっ! 鬼伯きはく。おいらたち見つかっちゃうよ」


 約束の時間が来ても、待ち合わせ場所に姿を現わさなかった清月の身を案じ、小太郎は己の持つ能力――折り紙で折ったものや絵に実体を与えることができる――それを行使して、行方を探らせていた。


 梟――小太郎の放った『式』の後を追い、鬼伯達は、実は館林忍軍が潜む荒寺へとたどり着いたのだが、その崩れ落ちそうな垣根が竹林の合間から見えた途端、複数の人間の放つ気を感じ、咄嗟に茂みの中へ身を隠したのだった。


 小柄な小太郎は茂みの中にしゃがみ込み、大柄な鬼伯は地面に腹這いになって。

 まだ夜明け前の薄暗い闇の中で、荒寺の周りをぐるりと取り囲む人間の黒い影が幾つも見える。

 それに舌打ちする鬼伯の隣で、小太郎は上空を旋回する梟の目を通して、さらに詳しい周囲の状況を把握していた。


「間違いない。お頭はあの寺の中にいるよ。『式』が気配を感じてる。でも……」


 囁き声でつぶやく小太郎の傍らで、鬼伯は茂みから寺の様子をうかがいながら息を吐いた。


「おそらく九十九衆だろうな。でもさっきは十数人だったのに、どんどんその数が増えているみたいだ。これはちょっと……ヤバイ状況だぜ」

「どうするの? 鬼伯」


 小太郎が眉間に皺を寄せて再び囁く。


「どうするって……そりゃ……決まってるだろ」


 黙って立っていれば思慮深そうに見える鬼伯だが、今は小太郎以上に子供っぽい笑みを浮かべ、まるでわくわくしているかのように唇を舌で舐めた。


「これぐらいの人数なら、清月一人でも囲みを破って逃げることができるだろうが、でも、今回の仕事は忍軍潰しだし、ここで俺達が奴等をせん滅したって構わないだろう」

「そりゃそうだけど……」


 小太郎の声は小さかった。まるで何か問題でもあるかのように。


「何だよ。何か文句あるのか? 小太郎」

「別ぇっに。やるんならさっさと終わらせたいだけ」

「それじゃあ。さっさとやろうじゃないか。何、俺達が派手に動けば九十九衆の目はこちらへと引き付けられる。清月が何をしてるのかわからないが、難儀してたら泣いて喜ぶだろうぜ」

「……お頭が泣くわけないだろ」


 ごそりと膝を立てた鬼伯の側で、小太郎はつぶやいた。

 だが戦いの興奮で気分が高揚している鬼伯は、その嫌みが込められたつぶやきに気付かない。鬼伯は着物の袂に右手を差し入れると、そこから念珠を取り出した。翡翠でできたそれを握りしめ、「じゃ、先に行くぞ」と小太郎と目線を交す。小太郎はゆっくりとうなずいた。


 鬼伯は茂みに隠れながら、傍らの立派な竹に身を寄せた。右手に握りしめられた念珠がほのかに光る。鬼伯が念珠に向かって何事かを小さく唱えると、それはみるみる長細くなり、やがて先端に、太刀を思わせる長い刃が弧を描いて伸びていった。

 鬼伯の身の丈を超えるほどの長さになった得物――それは巨大な鎌だった。


 念珠が姿を変え終わると同時に、鬼伯はそれを右手で悠々と背中に振りかぶった。

 一瞬、その場の空気が停滞する。さわさわと葉を揺らす竹すらもその動きを止めた。異様な気配を察して、寺を取り囲んでいた黒装束の忍達が一応に後方を振り返る。


「……魔風斬!」


 鬼伯の瞳が血色を帯び、白い長髪が空を舞う。その後ろで巨大な鎌が一閃したかと思うと、鬼伯の前方にある数十本の竹が瞬時に切り倒され、それは槍さながらの如く飛んでいく。

 ばたばたと倒れた。竹の槍に貫かれて九十九衆の忍達が。

 鬼伯が寺に向かって駆け出す。もはや姿を隠すつもりはない。こうなったらすべての九十九衆を倒すまでだ。

 どこからわいて来るのか知らないが、九十九衆達は竹に貫かれた同胞には目もくれず、鬼伯に向かって苦無くないを投げ付ける。

 が、鬼伯は手にした鎌を一閃して払い落とす。


「ああ、うっとおしい!」

 鬼伯は再び気を練った。鎌の白い刃がちかちかと光を帯びる。

「失せろ!」

 鬼伯の振り下ろした鎌から再び魔の風が放たれた。刃音が死の気配を伴いながら、九十九衆をなぎ払っていく。

 あるものは首を飛ばされ、ある者は胴を切り離され、鮮やかな血潮の華を咲かせながら倒れた。



「……魔風斬を使う時の鬼伯は……嫌いだ」


 その様を小太郎は無意識のうちに唇を噛みしめながら見つめていた。

 一瞬のうちに人間の体を切り刻める風を操る鬼伯。皮肉なことに、鬼伯が得物を鎌に定めたのは、己の名前が『死神』を意味する『忌み名』ゆえだ。

 今の鬼伯はその名前の通り、死神となって九十九衆の命を狩っていた。


「早く、終わらせたいな」


 茂みの向こう側で行われている殺戮行為から目を離し、小太郎は袖口からすでに折っていた五個の人形ひとがたを取り出した。

 一つ一つに息を吹きかけ、そして念じる。

 すると人形は、五人の『鬼伯』へと姿を変えた。

 この人形自体、本物の鬼伯と同じ能力はもっていないが、九十九衆をかく乱させるには十分だろう。


「さ、行って遊んどいで。でも、本物の鬼伯の側にいっちゃだめだよ。真っ二つにされちゃうからね」


 小太郎は薄く微笑みながら、軽やかに走り出した人形達の背中を見送った。

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