(7)今生の別れ
「光華、いい? 私の言う事をよく聞いて」
「お嬢。儂等がついとる! お嬢」
がくがくと震えていた光華は、夕香の白くて優しいその指が、そっと、だがしっかりと両頬に添えられるのを感じた。
「夕……香……姉さん。三郎……太」
光華の顔を心配げに覗き込む二人のそれをみて、光華はかろうじて自分を取り戻した。
「光華。このままでは私達、全滅してしまうわ」
夕香は光華の頬に手を添えたまま、静かに、だが穏やかにそう言った。
「……夕香姉さん」
「だから、あなたは一足先に土蔵に行って、紫嵐の清月を解放し、見張っている五月と河太郎と一緒にここを離れなさい」
「姉さん。それって……姉さんはどうするの? 私だけここから逃げるってことじゃない!」
光華は慌てて叫んだ。だが夕香は落ち着いた表情のまま、光華の目を見つめたままゆっくりとうなずいた。
「そう。日和が九十九衆に斬られたのなら、土蔵にいる五月と河太郎には、奴等がここを襲いに来たことがわからないわ。だから、光華。二人を死なせない為に土蔵へいって頂戴。土蔵を出て右に通路を進めば、この荒寺の裏手へ抜けられる道があるわ」
「でも……でも、姉さんは」
夕香はきゅっと唇を噛みしめ、だが、迷いを微塵とも感じさせない強い瞳を光華へ向けた。
「私と三郎太は別の抜け道を使ってここを出るわ。ふた手に別れた方が、お互い生き延びられる可能性がある。それに、光華。紫嵐の清月をなんとかなだめて、共にここから抜け出しなさい。あの人には九十九衆を滅するよう、前金を渡してあるのよ。まぁ、依頼を果たしてもらう前に奴等に襲われてしまったけれど、でも、その分だけの働きはしてもらっても構わないはずよ」
「お嬢。抜け道に九十九衆が来る前に行った方がいい。今のうちなら、五月と河太郎、それにあの『紫嵐隠密組』の御仁がいれば、九十九衆の囲みを突破できる」
三郎太が光華の両手をとって握りしめた。
その暖かみを感じられるのは、これが最後かもしれない。
「夕香姉さん、三郎太。後で……必ず来てね。後で、必ず……」
光華は二人の首に両腕を回し、その暖かさを、その感覚を体に刻み込んだ。
薬草の匂いが染み込んだ三郎太の忍び装束。
夕香のほのかに香る白粉の匂い。柔らかな絹のような黒髪。
そしてきびすを返して暗い通路を、土蔵めがけて駆けた。
駆けながら、涙が頬を伝うのを光華は止められなかった。
あの二人が自分を逃がすために、あそこで時間稼ぎをするために残った事を思うと。
『必ず来てね。後で、必ず……』
自分でもその言葉はとても虚しく感じた。でも、二人の気持ちはすでに決まっている。ここに残ってできるだけの抵抗をして、死んだ仲間への恨みをいくらか晴らしたあとで斬られても良い。
でも、自分は『館林忍軍』の頭領の娘なのだ。
逃げのびられる可能性があるものは、逃がさなくてはならない。
それが死んだ父親の遺言だから。
館林忍軍の唯一の生き残りになる五月と河太郎が、無事であることを祈りながら、光華は土蔵の扉へと近付いた。
な、に……?
鈍色の光が一瞬目についた。
辺りに漂う濃い血煙の臭いと共に。
思わず手で口元を覆った光華は、土蔵の木の扉の上方へ灯していた一本の蝋燭の光の中で、どさりと大柄な体がくず折れていくのを見つめていた。
「うっ……」
仰向けに倒れているのは良く見知った紺色の忍び装束。ぎょろりと白目を向いて天を仰ぐその顔は、二十をすぎた河太郎の若いそれだった。
「ひっ!」
光華は思わず声を漏らした。
河太郎を正面から袈裟がけに斬り倒した、黒装束の、頭からすっぽり頭巾を被り、目元だけしか素肌を見せない男が、十歩と離れていない光華めがけて、血に塗れた太刀を振りかざしたのだ。
ひゅうっ。
その一撃でこの世から瞬時に去る事ができる。
だが光華はその場に凍り付いていた。頭上から振ってきた九十九衆の太刀を、何も考えられない頭でただ見つめるだけしかできず――。
「伏せろ! 光華!」
突如雷鳴のように轟いた鋭利な声で、光華は思わず我に返った。
体が反射的に動き、地に腹這いになってひれ伏する。
冷たくて固い地面に倒れ込むように頬を押し付けた時、一陣の氷風が辺りを薙いだ。
ぴしっと、何かがきしむ。
ぴし、ぴし。
光華は目をぐっと瞑って体をすくめた。
心の中では安堵感が広がっていくのがわかる。
でも。
何かがきしむ音は止んだ。そのかわり、とても寒い。
一気に辺りの気温が下がったのか、それとも恐怖のせいなのか――。
「もう、起きてもらっても……よいぞ。光華殿」
その声はかすれていたが、聞き覚えのある知ったものだった。
「清月さん……」
光華はともすれば震えそうになる体をゆっくりと起こした。
「ああっ!」
目の前に太刀を振りかざし、真下にいる光華めがけてそれを下ろそうとしたまま、九十九衆の男が立っている。
「……」
だが、九十九衆は凍りついていた。正確に言えば、天井に届かんばかりの氷柱に、その身を閉じ込められていたのだ。
光華は恐る恐る立ち上がった。目の前の九十九衆の足元にも氷が張っている。
「すごい……」
清月の使う『技』は、天守閣で実際見たが、人を氷柱に変えるなど、常人のできることではない。
『紫嵐隠密組』は人外の技を使う異能の者たち――。
光華ははっとして、土蔵の扉の前で立っている清月を、畏怖の気持ちがこもった視線で見つめた。
清月は光華の視線を、その自身の技で放つ氷のように冷たく受け止めると、黒い着流しの裾を軽く払い、こちらへと歩いてきた。
――何事もなかったかのように。
「せ、清月さん……」
光華は突如、別の恐怖が這い上がってくるのを感じた。
目の前にやってくる、『紫嵐の清月』に。
彼は両手首を鉄の枷で拘束した上、一時的に血流を悪くする薬効のある香を一時以上も吸っていたのだ。常人なら枷を外さない限り外には出られず、立ち上がるだけで目眩を起こし、満足に歩く事も叶わないはずなのだ。
だが彼は軽く咳をして、光華の前に立っていた。
「さ、流石ね。あなたはその気があれば……いつでもここから逃げだせられたってわけね」
そう言葉だけは強がって言った後、光華は清月の顔が薬の影響のせいか白皙めいているのに気付いた。切れ長の瞳には強い光が灯っているが、一瞬視線が定まらないように中空を泳ぐことにも。
「……それは認めよう。だが、私とて万能ではない。現に土蔵の扉は、お主の仲間の一人が開けてくれた」
光華は思わず清月を凝視した。
「仲間って……ひょっとしたら五月!? よかった、彼女、まだ生きてるのね!」
心がうれしさに躍る。
河太郎を救えなかった無念さが、少しだけ軽くなる。
「あの者は死んだ。背中に太刀傷を受けていたが、その傷をこらえて私のために扉を開けてくれたが、力尽きた」
「なっ……」
光華は言葉を失い思わず両手で顔を覆った。
てっきり彼女は土蔵の中にいると思っていたのに。
清月がいるから、彼女だけは――!
「どうして……一体、どうして私達がこんな目に?」
心の堰に抑えきれなくなった、やり場のない気持ちが洪水のごとく溢れ出る。
「どうしてなのよっ! 何で、何で私達が死ななくちゃならないの――ッ!! 私達が何をしたっていうのよ!!」
両手を振り上げ、光華は清月の胸にそれを叩き付けた。再び頬を流れ落ちる熱い涙を拭いもせず、ひたすら彼の腕を胸を肩を叩いた。
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