海をまとう
洞貝 渉
1
水面を撫でるように光の筋が彼方へと滑る。
くるり、くるりと一定の速さで回る光の行く末を想像しながら、私はぼんやりとしていた。
ここは、どこだったか。私は何をしていて、今、どんな状況だったか。
一面ガラス張りの、まあるい部屋でふと気が付いた。
目覚めた、のかもしれない。
椅子に座ったまま、私はうっかり居眠りしていたのかもしれない。
わからない。思い出せない。私は一体何をしようとしていた?
そう広くもない部屋をぐるりと見回してみる。時計回りに机と椅子、ベット、小さなキッチン。それから、本棚。私は部屋の真ん中で、どっしりとした座り心地のいい椅子に身体を預けていて、それらを眺めている。
この部屋にあるのは、これだけ。
次に外の様子が知りたくなって、椅子から身体を引きはがし立ち上がり、ガラスに顔を寄せた。
何か揺れている。たくさんの部分が揺れ動き、光を発している。それが何なのかわからず、しばらくぼんやりと凝視していたが、やがて気が付いた。
水だ。見渡す限りの水面。視界いっぱいの海。
ガラスに沿って部屋の外周を歩く。何か、何でもいい、海以外の何かを見落としてしまわないよう目を凝らしながら、部屋をゆっくりと一周してみた。360度、海以外何もない。もう一周してみる。海。もう一周。やっぱり、海だけ。
船も陸地も見当たらない。
唯一、海以外に確認できたのは、一定の速さで水面を撫でるように滑る光の筋、たったそれだけ。
ここは、何?
疑問に答えるかのようなタイミングで、バサッと音がした。
見れば、本棚から一冊の本が抜けて床に落ちている。
それは子どものころによく読んだ、おとぎ話の本だった。
森に住む女の子が、好奇心に負けて禁を破り人魚の安息地になっている湖に足を踏み入れてしまう。怒った人魚たちは龍に変身して女の子の村を焼き尽くし水没させてしまった。途方に暮れた女の子に、一匹の龍が声をかける。もしも少しでも贖罪しようという意志があるのであれば海へおゆきなさい。そして生涯をかけて、わたしたちが海へ戻るための道しるべとなりなさい。そのためにあなたは、灯台を建てるのです。
「灯台……?」
そっとガラスの向こう、見渡す限りの海を見つめる。
光は上の方から出ていて、確かにこの建物を中心に回っているようだ。上の階に光源になるものがあるのだろう。
そう思って改めて部屋を見回してみる。上へ続く階段がどこかにあるはずだと思ったから。
でも、どこにもそんなものはなかった。
上に行く階段も、下に行く階段も、この部屋から出るための扉でさえ、見つからない。
焦りはなかった。そもそもここがどこなのかもわからない。
ここに来る前のことも、今の状況も、なにもかもわからない。すがすがしいほどにわからないことだらけで、かえって私は開き直っていた。
本を棚に戻して、小さなキッチンに立つ。
慌てても仕方がないのだから、ここは逆にリラックスするべきだろう。のんびりしてれば何か思い出すかもしれないし。
小さなキッチンに備え付けの収納を開けると、ヤカンやマグカップや小皿、複数の種類のお茶やコーヒー、お茶請けにちょうどよさそうな様々なお菓子が入っていた。
私はヤカンに水を入れ、一口コンロに置いて火にかける。
湯が沸くまでに飲み物とお菓子を物色して、本棚から一冊の本を選んだ。
部屋の外周に置かれた机と椅子のうち椅子だけを、部屋の中心に置かれた安楽椅子のすぐ隣まで動かす。
動かした椅子の上へ、一杯分のドリッパーから淹れたコーヒーと四角い一口サイズのチョコレート、それから剣と魔法の冒険ファンタジーの小説を置いて、準備は万端だ。
どっかりと安楽椅子に身をゆだね、コーヒーをすすり、チョコレートの甘さにうっとりとしながら、物語へと没入する。
満たされる思いでいっぱいだった。
私は、ずっと前から、こんな時間が欲しいと思っていたのだから。
でも、ずっと前っていつのことだろう。
本が読みたいなら、チョコレートが食べたいなら、コーヒーが飲みたいなら、そうすればいいだけなのに。
まあ、もうそんなことはどうでもいい。
だって、今やってるじゃないか。
今がどんな状況なのかはわからない。だけど、なんとなく時間はいくらでもあるような気がする。本もたくさんあるし、お菓子も、飲み物も、山ほどある。
なにも憂うことはない。心配なんてしなくていい。
思う存分、今を満喫しよう。
ガラスの向こう側では、水面がきらきらと輝いている。
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