帷子辻 ‐かたびらがつじ ‐
詩月 七夜
「ふぅ…」
妻が鏡台に座ったまま、溜息を吐いた。
俺は、その両肩に手を置き、丹念に揉みほぐす。
すると、鏡の中の妻は、ニッコリと微笑んだ。
「ありがとう」
笑うと
「お客さん、凝ってますねぇ」
肘でグリグリと妻の肩をあん摩しながら、俺は爺臭い声でおどけた。
妻が吹き出して笑う。
「やあだ、変な声」
「いや、でもホントに凝ってるよ。疲れがたまってる証拠だ。仕事、忙しいようだし」
さる大企業に勤めている妻は、結婚後も仕事を続けることを望んだ。
俺としては、稼ぎにも余裕があるし、家庭に入ってもらった方が良かったが、他ならぬ妻の望みなら反対する必要がない。
家事は分担することでバックアップを約束すると、妻は俺に抱きついて喜んだ。
その時の笑顔は、今も忘れない。
「…ごめんね。いつも残業続きで、家のことも任せきりになりがちで」
「いいさ。今、大事なプロジェクトに関わってるんだろ?こっちは気にしないで、思いっきりやりなよ」
「本当にありがとう…貴方と一緒になって良かった」
肩に置いた手を握りながら、目を閉じる妻。
「…ねぇ」
妻が潤んだ目で僕を見上げてくる。
僕にはそれだけで通じた。
「ああ。そろそろ家族を増やしてもいいよな」
妻の手をとって立ち上がらせる。
その肩を抱いて、俺はベッドへ向かった。
大事な仕事中だから、子作りは控え目にしていたが、今夜は妻もその気になったようだ。
「愛してるわ、あなた」
明かりを消すと、妻はそう俺の耳元で呟いた。
ああ。
間違いなく、俺は日本で…いや、世界でも有数の幸せ者だ。
仕事も家庭も、そして自慢の美しい妻との毎日も
何の不満も無い。
そう、思っていた。
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仕事で、不意の出張が入ったのは、その後日だった。
取引の関係で、京都へ行くことになったのだ。
週末は妻とゆっくり過ごせると思っていたが、ご破算になってしまった。
「いいなぁ、京都。私も行きたい!」
妻は羨ましそうにしていたが、彼女も仕事で地元からは離れられない。
「日曜日には帰れると思う。帰ってきたら、どこかに食事にでも行こうか」
そう言うと、妻は俺に大好きな笑顔を浮かべて喜んだ。
そんなこんなで京都にやって来た俺は、支社の人間と打ち合わせを行い、翌日の取引先との会議に備えた。
準備も万端、明日の英気を養おうと、支社の人が飲みに誘ってくれた。
断るのもなんだし、酒は嫌いな方じゃない。
喜んで誘いに応じた。
「ん?え、ええと…何て読むんだろ」
撮影所で有名な太秦付近を歩いていると、見慣れぬ地名があった。
一緒に歩いていた支社の人が、俺の目線を追う。
「ああ、あれは「
「帷子ノ辻?」
京都の地名にしては、華やかさが無いな。
「ここは
「魔所って…何か出るんですか?」
「まあ、出るっちゅう話はありますよ」
聞けば。
平安時代初期、嵯峨天皇の皇后に「
伝説によると、彼女は稀代の美貌の持ち主でもあり、恋慕する人々が後を絶たず、修行中に打ち込む若い僧侶たちでさえ、その心を動かされるほどだったという。
これを憂いた皇后は仏教にいう「
具体的に言うと、彼女は死に臨んで「自分の亡骸は埋葬せず、どこかの辻に打ち棄てよ」と遺言したのだ。
この遺言は守られ、皇后の遺体は辻に遺棄された。
当然ながら、遺体は日に日に腐り、犬やカラスの餌食となって醜く無残な姿で横たわり、白骨となって朽ち果てた。
人々はその様子を見て世の無常を心に刻み、僧たちも妄念を捨てて修行に打ち込んだという。
「で、その皇后の遺体が置かれた場所を『
「帷子って、
「いや、正しくは
俺は頭の中で想像した。
誰もが羨む美しい女性が、死後、辻に打ち捨てられ、獣に辱められていく姿を。
その美貌も、無残な有様になり、最後に骨まで風化していく。
「それ以降、ここを通ると、無残な女の死体の幻を見るとか」
低い声で支社の人が言う。
「うえ、食事前にはキッツイですね」
僕はおどけてそう言った。
「ほんなら、はよ行きましょう。どうせ見るなら、
支社の人がそう言うので、笑ったその時。
一瞬だ。
一瞬だった。
道の行く手に、白い服を着た女を見た。
女は道端に横たわり、こちらに顔を向けた。
それは、無残な姿だった。
頬肉は噛み千切られたように骨が覗き。
眼窩は無明の闇のように
鼻梁は避け、虫が中で蠢き。
唇からも
目も背けたくなるような有様の中、右目は生前の美しさを残し。
濁った眼がこちらを見ていた。
「どうなされました?」
支社の人の声に、ハッと我に返る。
俺は、慌てて女が横たわっていた場所に目を向けたが、そこには何も無かった。
ドッと冷や汗が吹き出す。
「いや…何でもありません。行きましょう」
支社の人を急かすように、俺はそこを後にした。
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仕事が予定より早く片付き、俺は一日早く帰ることが出来た。
妻には内緒で、自宅に帰る。
きっと驚くだろう。
そう思って、家のドアを開けた。
「ただい…ま…」
そこに驚いた顔の妻がいた。
そして。
見慣れない顔の男もいた。
男は半裸の妻の上にのしかかり、俺を認めると、服を正した。
「ご主人、お早いお帰りで」
何も言えず立ち尽くす俺に、男は笑って言った。
「奥さん、美人ですね。羨ましいですな…まあ、おすそ分けは頂いてましたが」
その言葉が、俺の全身を雷のように打った。
全身が、ワナワナと震えだし、視界が形を失っていく。
男は動けない俺を残して、去って行った。
後には、茫然自失の俺と青ざめたままの妻が残される。
「…いつからだ?」
我ながら死人のような声だと思った。
それに、妻がハッとなる。
「違うの!あの人は会社の人で、今日はたまたま近くに来たからって…」
「俺が居ないのをいいことに、お楽しみだったってわけか…?」
「聞いて、あなた!あの人、強引に家に上がり込もうとしたら、いきなり…」
「もう、いい」
俺は魂が壊れるのを感じた。
目の前の妻が、酷く汚れて、醜い肉塊に見えた。
自慢の…美しい妻。
どんなことがあっても、この妻と妻との日々を守ろうと、固く誓った。
それが俺の誇りで、喜びだった。
「あなた!」
無言で家に上がる。
見慣れた家の中は、色を失ったモザイク画のようだった。
腕を伸ばす。
何かを握った。
固くて、長い。
よく振るっていたゴルフクラブに似ている。
「あなた、聞いて…!」
雑音に振り返る。
見たくもない肉がそこにあった。
いいや。
こんなもの。
もういいや。
「あなた」
手にした何かを振りかぶる。
肉は静まった。
だが、もういらないと決めたんだ。
グチャッ…!
手にした何かを振り降ろす時。
何故か、赤ん坊の絶叫を聞いた気がした。
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あれから幾日経ったのか。
俺は会社には普通に行っている。
よく覚えていないが、気が付いたら玄関には何も無かった。
あんなに赤いモノで汚れていたのに。
しばらく経って、妻の会社から電話が来た。
だが、俺は何も知らないので、適当に相手をした。
そのうち、警察が来て、色々聞かれたが、俺は日曜日まで京都に居たので、何も知らないと言った。
妻は消えた。
悲しくはない。
理由は分からないが、思い出すのが
結局、何も分からないまま、時間が過ぎていく。
警察は定期的に家に来ては、同じことを尋ねて帰る。
俺は京都に居たことを繰り返す。
会社は辞めた。
もう、何もいらなくなった。
無味無臭の日々。
ふと、家の掃除をしていると、アルバムが目に入った。
夢遊病者のように手に取り、ページをめくる。
そこには幸せそうに笑う自分と…
腐乱した妻の
写真の中の腐った女の貌は、段々と腐りゆく。
恐らく、明日は更に腐っていく。
この今の日々のように。
「諸行無常」…いや「所業無情」というべきか。
どこかにうち捨てられ、見るも無残に腐乱していく、美しかった妻の体を思い浮かべる。
悪夢のような想像に脳を焼かれ、俺は静かにアルバムを閉じたのだった。
帷子辻 ‐かたびらがつじ ‐ 詩月 七夜 @Nanaya-Shiduki
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